目次
①奥州の覇者・小田原参陣
②会津若松城の誕生
③再び蒲生氏が入城
④加藤氏入城
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事
・奥州の覇者・小田原参陣
摺り上げ原の戦いに勝利した伊達政宗は、奥州の覇者として拠点を米沢城より黒川城へ移し、さらに関東への侵攻を目論む。
だが政宗の前に大きな敵が立ちふさがった。
関東から西を手中に治めた関白・豊臣秀吉である。
秀吉は、大名が私的に戦を行う事を禁止した「惣無自令」を発しており、これまでの政宗の戦いは「惣無自令」に違反した行為であったのだ。
天正18年(1590年)自令を破った小田原の北条氏政は、秀吉からの再三の釈明要求も拒否した。ついに秀吉は激怒し、北条討伐の兵を挙げたのである。その軍勢22万。
「摺上原の戦い」にて蘆名氏を滅ぼした伊達政宗にも釈明を問われてた。
釈明要求を誤魔化し続けてきた政宗であるが、ついに勝ち目がないと判断し、泣く泣く秀吉に屈することを決意する。
そして黒川城を発し、小田原征伐に参陣。秀吉との謁見を許されるのである。
政宗は死を覚悟した。
関白・豊臣秀吉との謁見に選んだ服装は死装束であった。
恭順の意を示すとの狙いからであろう。
「政宗、政宗」秀吉は政宗をひざ元まで呼び寄せる。その瞬間、刀が大きく振り上がった。そしてその刀は政宗の首に押し付けられていた。
「あと一歩遅ければそちの首が飛んでおった。」
秀吉の貫禄勝ちであろう。
しかし、この政宗の釈明により伊達家討伐は免れている。
数日後、関東の覇者・北条家は滅亡。
秀吉が行った奥羽諸侯の領土仕置きである、「奥羽仕置」にて政宗は会津領を没収。政宗の会津支配はわずかに1年たらずであった。
そして黒川城は蒲生氏郷に与えられるのである。
・会津若松城の誕生
蒲生氏郷は近江国(滋賀県)蒲生郡日野の出身の武将で、幼小の頃から織田信長にその才を買われ、信長の次女と婚姻をさせる程の人物である。
氏郷は信長、秀吉の下で様々な武功をあげ、伊勢国(三重県)松ヶ島12万石より会津42万石へと加増されている。いまだ心から豊臣政権に臣従していない、奥州の伊達政宗・関東の徳川家康・越後の上杉景勝などの抑えとして会津に氏郷を送り込んだのであろう。
天正19年(1591年)には「奥羽仕置」の不満から大崎・葛西領(現・宮城県)での一揆が勃発する。
政宗は秀吉に心底から屈服しておらず、この大崎・葛西の一揆を陰で先導していたのが政宗であった。
事は順調かにみえたが、政宗の家臣・須田伯耆が政宗の書いた一揆への密書を携え、蒲生氏郷の陣所に駆け込んだ。氏郷に証拠となる密書を握られてしまったのである。
すぐさま秀吉へ報告がいき、またもや政宗は窮地に追い込まれていく。
氏郷は一揆討伐後、政宗の謀反を見抜いた恩賞にて、伊達領50万石を加増され会津92万石の大大名へとのし上がっていく。
会津へ戻った氏郷は92万石に相応しい城を築くべく、黒川城の大改修に着手する。
信長の安土城・秀吉の大阪城をまじかで見てきた氏郷は、東北初の織豊系城郭を築きあげるのである。
黒川城は会津盆地南東に位置し、東には標高863mの背炙山、北南には背炙山から流れる車川、湯川が天然の水堀となす、河川との間にできた舌状台地に築かれた城である。
北側の車川を外堀とし、城下町を堀で囲み総構えとし、東から三の丸、二の丸、本丸と連郭式の縄張りとなっている。
氏郷は、土塁を石垣に、堀を水堀に築き上げ、さらに複数の櫓、馬出を配置、金箔瓦を使用した壮麗な7層の天守を築き上げた。その威容に東北の諸将たちは度肝を抜かれたことであろう。
城下町には旧領・松坂から商人・町人を呼び、楽市楽座の開設、定期市を開催し、商業政策にも力を入れ、現在の会津若松市の礎を築いた。そして名も「黒川」から「若松」と改め、ここに「会津若松城」が誕生するのである。
文禄2年(1593年)には天守が完成し、蒲生家・向い鶴の家紋から「鶴ヶ城」と名付けられた。
氏郷は、勇猛な武将であり、築城や経済振興の手腕も併せ持つ名君である。
また茶の湯を愛し、千利休を師と仰ぎ、利休七哲の筆頭に挙げられる程の優れた文化人でもあった。利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と称されている。
利休が秀吉の勘気を被り、死を命じられた後、師への敬慕からその子・千小庵を匿い、後に秀吉に懇願をし小庵の身柄を会津に引き取っている。
そして小庵に、鶴ヶ城本丸に数寄屋「麟閣」を築かせ会津文化の礎を築いている。
この麟閣は戊辰戦争後、鶴ヶ城取り壊しに際して、森川善兵衛によって自宅に移築され、平成2年に鶴ヶ城内に「茶室麟閣」として再移築された。
現在も本丸の一角に静かに佇んでいる。
文禄4年(1595年)、信長・秀吉の2人の天下人に称された氏郷は、その才を惜しまれつつも40歳にて病死。
もし氏郷が早世しなければ、日本の未来は大きく変わっていたことであろう。
その後、氏郷が嫡子・蒲生秀行が後を継ぐが、わずか13歳の秀行には92万石の大国を治める力はなく、家臣達にいさかいが起こり、ついには宇都宮18万石へと減俸されてしまった。
慶長3年(1598年)越後国(新潟県)より上杉景勝が120万石にて鶴ヶ城に入り、鶴ヶ城より北西に4km離れた神指に新たな城、神指城の築城を開始する。
が、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦が起こり、敗れた上杉景勝は米沢30万石に減俸されてしまう。神指城は完成することなく廃城となり、幻の城となっている。
・再び蒲生氏が入城
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦の恩賞により、再び蒲生秀行が会津60万石にて鶴ヶ城へ入城する。
慶長17年(1612年)には30歳の若さで秀行が病死し、嫡子・忠郷が後を継ぐこととなる。この忠郷の時代に石垣の積替えや、それまであった郭群を二の丸に統一し、大型の郭へと改修された。
寛永4年(1627年)忠郷は疱瘡により26歳にて死去。
忠郷には嫡子がおらず、蒲生家断絶の危機に陥るが、忠郷の母が徳川家康の娘ということもあり、弟の忠知を後継ぎとし伊予国(香川県)松山24万石への減俸処置にて窮地を免れる。
しかし伊予松山にて忠知も31歳にて病死してしまい、蒲生家は断絶となっている。
・加藤氏入城
会津へは伊予松山より加藤嘉明が40万石にて鶴ヶ城へ入城。
加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、幼き頃より秀吉に仕え、築城の名手でもあった。伊予松山城は嘉明が築いている。
嘉永8年(1631年)嘉明が69歳にて病死すると、嘉明が嫡男・明成が会津40万石を引き継ぐ。明成の時代に、慶長16年(1611年)に起きた会津地震で傾いた天守を、5層5階建ての層塔型天守へと組みなおし、未完の城・神指城から石垣を運び、崩れた石垣を積みなおし、本丸北側・西側にある馬出を大きな出丸とし、北出丸・西出丸へと大改修。
現在の鶴ヶ城の縄張りとなった。
1643年(寛永20年)、加藤明成はお家騒動にて改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石にてに入封。3代・正容の代に松平姓と葵の紋を使用が許され、親藩に列せられた。
以後、明治維新までの225年間、鶴ヶ城は会津松平家の居城となった。
そして時代は徳川幕府、倒幕へと傾き慶応4年(1868年)戊辰戦争へと発展していくのである。
城データ
城名:会津若松城、鶴ヶ城
築城者:蘆名直盛・蒲生氏郷・加藤明成
主要城主:蘆名氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏、松平氏
主な遺構:復元天守、復元干飯櫓、復元鉄門、復元廊下橋、石垣、虎口、堀、土塁
所在地:福島県会津若松市追手町1-1
駐車場:有料駐車場有
連絡先:0242-27-4005(会津若松市観光ビューロー)
アクセス:JR磐越西線「会津若松」駅から、まちなか周遊バスで約20分「鶴ヶ城北口」下車徒歩3分、磐越自動車道・会津若松ICより約15分
指定文化財:国指定
日本100名城
みどころ
・日本唯一の赤瓦天守
・扉や柱を鉄で包んだ鉄門
・20mを超える本丸東側の高石垣
・自然の地形を生かした水堀
・土塁の上に積まれた鉢巻き石垣、土塁の崩れを防ぐ腰巻石垣
・二の丸と本丸をつなぐ廊下橋
・左右で造られた時代が違う全国でも珍しい武者走り
・様々な工法で積まれた石垣
他
会津若松城(幕末編)・上に続く【近日公開予定】
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