高田城

越後75万石の拠点

天下普請で築かれた城

 

春になると4,000本の桜が咲き誇る城がある。

越後国(新潟県)・高田城だ。

徳川家康の六男・松平忠輝の居城であり、普請は奥州王・伊達政宗である。

石垣こそ使用されていないが、越後・75万石の拠点に相応しい巨大城郭で、近世技術を駆使した土の城だ。

平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。

それでは桜香る土の城・高田城を御堪能あれ。

 

高田城

 

目次

①天下人・徳川家康
②家康六男・松平忠輝
③高田城築城
④高田城の縄張り
⑤その後の高田城主
⑥城データ(所在地はこちら)
⑦みどころ
⑧おすすめ記事

 

 

・天下人・徳川家康

慶長3年(1598年)農民から公家の最高官位・関白まで上り詰めた豊臣秀吉がついに没した。その葬儀は派手好きな秀吉とは思えないほどに質素に密葬で行われている。

それは秀吉の子・秀頼がわずか5歳であったからだ。天下を束ねるには幼すぎた。

秀吉の死を知った実力者・徳川家康がついに天下を奪いに動き出す。

関東250万石にて陣取る家康は、豊臣恩顧の大名達へ巧みに近づき自陣へと引き込んでいった。

名立たる大名たちと積極的に婚姻を行い、血縁での結びつきを強めている。

しかし豊臣政権では私的な大名同士の婚姻を禁止しており、これは秀吉の遺命でもあった。あきらかな豊臣氏への挑発行為である。

高田城

秀吉が亡くなってからわずか5か月後には、伊達政宗の姫・五郎八(いろは)姫と家康六男・松平忠輝との婚姻が執り行われている。奥州の実力者・伊達政宗を徳川方に取り込もうとする計略だ。

家康の天下取りの戦いは既に始まっていた。

その後、黒田長政、蜂須賀至鎮、中村忠一、前田利常、浅野長重、福島正則らと婚姻を行い、その絆を深めている。どの武将も豊臣氏と繋がりが深い大名たちである。

高田城

高田城

そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦にて西軍・石田三成を破り、その3年後の慶長8年(1603年)には征夷大将軍に就任、ついには天下を治めるのである。

 

 

今回紹介する高田城を築いたのは家康六男・松平忠輝と伊達政宗である。

高田城

・家康六男・松平忠輝

忠輝は、家康六男として側室・茶阿局との間に生まれた。

辰年に生まれたため、幼少名は辰千代といった。

諸説あるが天正20年(1592年)に浜松、または江戸で誕生し、捨てられた子は育つとの風習から、重臣・本多正信に拾われ、下野国(栃木県)皆川城主・皆川広照に預けられ教育された。

忠輝は、慶長4年(1599年)にわずか7歳で長沢松平氏を継ぎ、深谷1万石を与えられ、慶長7年(1602年)には下総国(千葉県)佐倉藩4万石へ加増、元服をして上総介忠輝を名乗る。そのわずか40日後の慶長8年(1603年)に、信濃国(長野県)川中島藩12万石に加増され松代城主となっている。

家康六男としての期待がうかがえる待遇である。

高田城

この頃に幕府勘定奉行・老中・徳川金銀の統括でもある、大久保長安が忠輝の附家老に任じられている。

 

 

慶長10年(1605年)14歳で従四位下・右近衛権少将に任じられ、同・5月11日には二代将軍・徳川秀忠の名代として、大坂城の豊臣秀頼と面会している。

そして慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫との婚儀が執り行われたのである。政宗とは舅となり、徳川家と伊達家は忠輝・五郎八姫によって、より強い絆を深めていった。

高田城

忠輝は幼きころから、その気性の激しさにより素行が収まらず、「上総介殿の三臣」と呼ばれた、養育係の幕府附家老・皆川広照や、長沢松平家からの重臣・山田重辰、松平清直らの諫言は聞かずに、新参の家臣を寵愛していた。

そのためか、忠輝の乱交は収まらず、ついに上総介殿の三臣は家康に直訴している。

だが生母の茶阿局の取り成しもあり、家康からは逆に家老職に不適格であるとされ、皆川・松平清直は改易、山田には切腹の命が下っている。

 

「皆川城」詳しくはこちら→

皆川城「螺旋状に配置された曲輪群  春香る・法螺貝城」

 



 

忠輝は慶長15年(1610年)、越後福嶋騒動で堀忠俊が改易されると、その旧領である越後国(新潟県)高田61万石を加封され、川中島14万石と併せて合計75万石を領した。

高田城

・高田城築城

当初は堀氏が築いた上越市直江津港の近くの福島城を居城としていたが、河川や海による水害の被害が激しく、幕府より内陸の上越高田に築城するよう命じられている。

こうして、高田城は天下普請として、舅の伊達政宗を筆頭に、出羽国(山形県)・上杉景勝、信濃国(長野県)・真田信之、出羽国(秋田県)・佐竹義宣、加賀国(石川県)・前田利常ら計13家のそうそうたる大名たちによって築城された。

慶長19年(1614年)3月15日から高田城築城が始まり、7月5日に普請が完成した。

わずか80日足らずでの完成である。

高田城

この頃の情勢として、徳川最大の敵である豊臣氏はいまだ大阪城に健在で、油断のならない状況であった。

越後の西、越前国(福井県)には家康が次男・結城秀康が67万石を領しており、越前結城氏67万石・高田松平氏75万石、計140万石にて、加賀国(石川県)前田120万石を挟み、また、東の上杉氏、西の豊臣氏を牽制している。

 

 

高田城は激化する豊臣氏と徳川氏の戦いの中で築かれた城であった。

高田城

そしてついに家康は豊臣討伐を決意。

慶長19年(1614年)10月、大阪冬の陣が開戦される。

一度は講和が成立するものの、慶長20年(1614年)5月、大阪夏の陣にて豊臣氏は敗れ、大阪城は炎上。秀頼は自刃。豊臣氏は滅んでいる。

 




 

高田城

・高田城の縄張り

では高田城の縄張りを見ていこう。

高田平野の低丘陵に築かれた輪郭式の平城で、妙高連山から流れ出る矢代川と関川を天然の外堀とし、本丸を二の丸で囲み、南に三の丸、陽戦曲輪、丸型の出丸・瓢箪曲輪を配置した輪郭式の縄張りだ。

高田城

各曲輪を水堀で囲み、敵の侵入を防ぐ。

 

 

約50mはあろう外堀は圧巻で、まるで川である。

高田城

この城は、豊臣氏との決戦が迫っていたからか、築城を急いだからか、近世城郭では珍しく石垣は築かれず、土塁・水堀にて形成されている。

天守閣も構えず、代わりに三重櫓が築かれている。

現在の天守閣は平成5年(1993年)に松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考に復元された。

高田城

2002年(平成14年)には本丸と二の丸を繋ぐ、極楽橋が復元され、工事中には木杭などの遺構が出土している。

 



 

さすがは伊達政宗ら名立たる大名たちが縄張りした城である。

堅城だ。

高田城

明治40年(1907年)旧陸軍第十三師団が入城する際、土塁の大半は崩され、堀は埋められている。

現在は約50ヘクタールを誇る高田城址公園として整備され、昭和25年には新潟県史跡に指定されている。

高田城

春には約4,000本の桜が咲き香り、日本三大夜桜の一つにも数えられている。

 

 

高田城

高田城

高田城

・その後の高田城主

その後、忠輝は大阪夏の陣に進軍中、軍を追い抜いた将軍家旗本の家臣を斬り殺し、家康との約束である朝廷への戦勝報告をすっぽかすなどの素行が修まらず、ついには家康の怒りを買い、家康臨終の際も忠輝のみ謁見は許されなかった。

高田城

また忠輝には大久保長安、伊達政宗と示し合わせて、幕府討伐を企てた陰謀説もある。

長安の財力と政宗の権力を背景に、イスパニア(スペイン)艦隊を大阪湾へ呼び寄せ、豊臣秀頼やキリシタン大名を取込み、忠輝を将軍とし大阪城に陣取り、日本、世界を牛耳るという途方もない計画を立てていた。

この陰謀説はあながち嘘ではなく、政宗は幕府に願い出て、仙台藩にて洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号を建造。

慶長18年(1613年)家臣・支倉常長を筆頭に伊達家中11名、幕府家臣10名、宣教師ルイス・ソテロ、イスパニア使節セバスチャン・ビスカイノ、南蛮人約40名、商人など使節団100余名を乗せ、慶長遣欧使節団として仙台藩・牡鹿郡月浦からイスパニアへ向け出港している。

慶長20年(1615年)1月にはスペイン国王フェリペ3世に謁見、同年11月ローマ教皇パウロ5世に謁見する。常長らはローマ市公民権証書を授与されている。

元和6年(1620年)9月、常長は再び仙台の地を踏んでいる。

 

 

常長ら慶長遣欧使節団は日本で最初に大西洋を渡った使節団となった。

高田城

しかしこの陰謀は幕府の慶長17年(1612)年キリシタン禁教令によって夢と消え、その後日本は鎖国へと向かっていった。

太平洋、大西洋を横断したという、前人未到の偉業を成し遂げたこの一行も、存在が隠され、明治時代になるまで表舞台に出ることはなかった。

高田城

その後、酒井家次10万石、松平忠昌26万石、松平光長26万石と続き、寛文5年(1665年)光長時代に高田地震が起こり多くの建造物が倒壊している。

この復旧の際に三重櫓を建設している。

高田城

延宝9年(1681年)、後に越後騒動と呼ばれた跡目争いが絡んだ、家臣達の争いより、松平氏は改易となり、その後4年間は幕府直轄領として信濃国の大名が1年交代で城代となった。

貞享2年(1685年)より稲葉正往10万3千石、戸田忠真6万8千石、松平定重11万3千石、榊原政純15万石と目まぐるしく城主が変わり、明治6年(1873年)の廃城令によって高田城は廃城となっている。

 

 

明治39年(1906年)には陸軍第13師団が入城し、桜が植樹された。

昭和29年(1954年)には新潟県指定史跡に登録され、高田城址公園として地元の人の憩いの場となっている。

高田城

高田城

平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。

高田城

高田城はその城観美に多くの人々を魅了している。

高田城

 

城データ

城名:高田城、鮫ヶ城、関城、高陽城

築城者:松平忠輝

主要城主:松平氏、酒井氏、松平氏、松平氏、稲葉氏、戸田氏、松平(久松)氏、榊原氏

主な遺構:土塁、水堀、三重櫓(復元)、極楽橋(復元)

所在地:新潟県上越市本城町6-1

連絡先:025-524-3120(上越市立総合博物館)

アクセス:えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン「高田駅」から徒歩で約15分      関越自動車道「上越高田IC」から車で約10分

無料駐車場あり

指定文化財:県指定

続・日本100名城

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みどころ

・川のような広大な水堀

・復元された三重櫓、極楽橋

・春には4,000本の桜が咲き香り、夏には水堀一面に蓮の花が咲き誇り、冬には雪に包ま            れる。四季折々の城景美

 

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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