上田城

日本一のつわもの・真田氏

後の将軍の兵を2度撃退した城

 

日本一の兵(つわもの)と称された真田氏。

真田一族は戦国の激動の渦にもまれ続け、時代の転換期に常にその中枢にいて真田の名を残してきた。

絶体絶命の窮地から得意の策謀で道を切り開いてきた真田氏。

居城とした上田城は、敵を撃退するために考えられた、難攻不落の城として、現在もその遺構を残している。後の将軍・徳川軍もついには落とすことはできなかった。

では不落城との呼び名が高い上田城を御堪能あれ。

上田城

 

目次

①築城者・真田昌幸
②本能寺の変
③天正壬午の乱
④上田城の誕生
⑤第一次上田合戦
⑥第二次上田合戦
⑦関ケ原合戦後
⑧城データ(所在地はこちら)
⑨みどころ
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・築城者・真田昌幸

上田城は天正11年(1583年)真田昌幸によって築城された。

真田氏は平安時代より長野県東信濃に栄えていた海野氏の一族で、真田荘(長野県真田町)を支配し、真田姓を名乗ったとされている。

真田の名を轟かせたのは、昌幸の父である真田幸隆である。

 

 

真田荘を支配していた幸隆であったが、北信濃の雄・村上義清に攻められて一族は崩壊。天正15年(1546年)頃、一門を従えて武田信玄に臣従した。

武田信玄は幸隆の道案内により東信濃を本格的に攻略。この軍略の功により信州小県を与えられ旧領を奪還する。

怨敵・村上義清の拠点、砥石城攻めでは信玄も落とせなかった城を調略を駆使し、攻略に成功。信玄の参謀として武田二十四将にも数えられ、武田の重臣として活躍する。幸隆長男・信綱も武田二十四将に数えられ、次男・昌輝、三男・昌幸ともに信玄からの信頼厚く、最前線にて活躍した。

上田城

上田城

信玄没後、後を追うように幸隆も逝去。

長男・信綱が家督を継ぐが、わずか1年後の長篠の戦いにて、次男・昌輝と共に戦死。

三男・昌幸が真田家家督を継ぐことになる。

昌幸は、武田家衰退が激しく他の重臣や親族衆が第20代武田家当主・勝頼を見限る中、昌幸は後北条氏の沼田領攻略、新府城築城など最後の最後まで勝頼を支え抜いた武将である。

窮地の勝頼を迎えるべく、当時の居城・岩櫃城に御殿まで建設をしている。

昌幸の奉公虚しく、天正10年(1583年)3月、武田家は滅亡。

武田家滅亡後は、織田家に取り組まれ滝川一益の与力武将となった。

上田城

・本能寺の変

そのわずか3か月後、天正10年6月、本能寺の変にて織田信長が討たれるのである。

織田家臣団は武田旧領より逃亡、また郎党たちに殺害される。または殺害される。

滝川一益も北条氏直に討たれ、武田旧領は一気に混乱状態に、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の支配を巡り、近隣大国の徳川、北条、上杉にて争いが勃発、「天正壬午の乱」が起きたのである。

上田城

・天正壬午の乱

上野を攻める氏直。甲斐を攻める家康。北信濃を攻める景勝。

そこに真田氏も戦いの渦に巻き込まれていく。生き残りをかけ数々の智謀の数をつくすも、大軍を率いて真田領へ進軍する北条氏に降伏。

氏直は昌幸を先方にし、徳川方の小諸城を攻めるのである。

上田城

様々な思惑の中、北条と上杉との間に同盟が結ばれる。

北条・上杉対徳川の構図となった甲斐では激戦が繰り広げられたが、黒駒の合戦により徳川勢が勝利。北条氏を撃退した。

依然、兵数では北条氏の有利であったが戦に勝利したことにより、信濃諸将が徳川軍に寝返り、真田家も北条家を見限り徳川に従った。

激しい争いがあったが、今度は徳川・北条との間に同盟が成立することとなる。

そして講和の条件の1つとして、真田氏が攻略した沼田城を返還するよう、北条方が要求してきたのである。当然、昌幸はこれを拒否。こうして徳川家との関係は悪化していった。

 

 

・上田城の誕生

上杉との戦いに備え最前線に位置する真田家を重視し、強硬姿勢を取れない家康に対し、昌幸は対上杉の名目で上田城の築城を開始。

家康にも支援を求め、天正11年(1583年)上田城は完成。本拠地を沼田・岩櫃から上田に移すのである。

ここに誕生したのが上田城である。まさに戦いの中で生まれた城。

徳川の金と労力を使って強固な城を築城した昌幸は家康を見限り、上杉方へ寝返るのである。

上田城

・第一次上田合戦

天正13年(1583年)これに激怒した家康は、大久保忠世を総大将に鳥居元忠、平岩親吉ら7,000の軍を編制し真田討伐を指示、上田城へ進軍させた。

上田城は上田盆地の中央に位置する、千曲川分流の尼が淵を崖下に望む河岸段丘の上に造られた。南に尼が淵の崖、東に神川と天然の要害を利用した難攻不落の平城だ。本丸を水堀で囲み、二の丸、百閒堀という巨大な堀を配置。西には小泉曲輪、東に三の丸を配置した梯郭式の縄張りとなっている。

徳川軍を迎え撃つために昌幸は次男・幸村と上田城に本隊1,000の兵を配置。長男・信之は砥石城に400。矢沢頼康が矢沢城に300。丸子城に300の計2,000の兵にて徳川軍を迎えた。第一次上田合戦の開始である。

徳川軍は丸子城をわき目もくれず上田城へ攻撃を開始、幸村隊300の兵が徳川軍と応戦をする。7,000対300では勝負にならず、幸村隊は二の丸まで撤退を開始、追撃する徳川軍に砥石城の信之隊300が町に火をかけ退路を断ち、本隊1千にて鉄砲と弓にて総攻撃、狭い二の丸に誘導され身動きがとれない徳川軍は混乱し、一斉退却を開始。

すかさず退却にて一列になった徳川軍の側面を信之隊が攻めかかる。多くの兵が犠牲となった。。多くの兵を撃退する。極めつけは、撤退する徳川軍が神川に差し掛かった時、せき止めていた水を一気に放流し、多くの徳川兵が濁流に流された。

徳川軍の被害は甚大で真田軍40人の被害に対し徳川軍は1,200名を越えたという。圧倒的な勝利だった。

この勝利を機に真田氏は独立を果たし、真田氏と上田城は天下に名を知らしめることになった。

上田城

・第二次上田合戦

時が経ち、15年後の慶長5年(1600年)天下分け目の関ヶ原合戦に向かうため、中山道を徳川主力部隊である、秀忠軍35,000の大軍で進軍。

途中、西軍に属した真田昌幸が籠る上田城攻めを開始する。

関ヶ原の合戦では、父・昌幸、次男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信之は東軍に属していた。

長男・信之は徳川四天王の本多忠勝の娘を妻にしており、次男・幸村は石田三成の盟友、大谷吉継の娘を妻にしていた。

東軍、西軍、どちらが勝っても真田の名が残るよう、父子が分かれて戦ったのである。

 

 

徳川軍35,000に対し真田軍2,000。いよいよ第二次上田城合戦の開始である。

真田軍は本隊1,500を上田城に、幸村率いる500を砥石城に配置。

徳川軍に従軍していた信之は父と弟と密談を交わし、関ヶ原に主力部隊を送らぬよう足止めを計画、関ヶ原で勝利をした西軍に追撃してもらう後詰め作戦を決行する。

先方を任された信之は、後顧の憂いを断つため砥石城を攻めることを進言し、自ら砥石城を攻め立てた。

これは密談の上での行動であった。幸村は砥石城から空鉄砲を発射。まるで戦をしているかのように上田城まで引き、兄弟での戦いを避けた。徳川軍・牧野隊、大久保隊、本多隊、計6,000が神川を渡り三の丸へ進軍。

その時、せき止めていた川の水を放流し、本隊と分断をする。

三の丸に密集した6,000の徳川兵を上田城から鉄砲と弓にて集中砲火。徳川軍は一気に混乱に陥り撤退した。

見事に足止めに成功し、秀忠率いる35,000の徳川主力部隊はついに「天下分け目の関ヶ原の合戦」に間に合わなかったのである。

第二次上田合戦も真田氏の大勝であった。

上田城

上田城

・関ケ原合戦後

真田の奮戦も虚しく西軍は敗れ、石田三成や主だった諸将は死罪。昌幸、幸村親子は長男・信之の嘆願により死罪はまのがれ高野山に流罪される。

徳川軍を2度も退けた上田城は目の敵にされ、徹底的に破壊された。

後に幸村は大阪冬の陣にて大阪城に真田丸を築き徳川軍を撤退させ、夏の陣では野戦にて家康をあと一歩の所まで追いつめている。真田日本一の兵と称されることになる。

上田城

上田城

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、上田城には信之が入るが、わずか2年で松代へ転封。松代にて真田家は現在も続いている。

信之の後は、仙石氏が上田城に入り堀を掘り返し、石垣を積み、城を復興。

現在まで遺構をとどめ、多くの戦国の痕跡を見る事ができる。

上田城

 

城データ

城名:上田城、尼ヶ淵城

築城者:真田昌幸

主要城主:真田氏、仙石氏、松平氏

主な遺構:西櫓、本丸東虎口櫓門(復元)、南櫓(復元)、北櫓(復元)、石垣、土塁、水堀、真田石、真田井戸、石樋、隅おとし

所在地:長野県上田市二の丸

連絡先:0268-22-1274(上田市立博物館)

アクセス:上田駅より徒歩約15分

     上田菅平ICより車で約10分

駐車場有

日本100名城

指定文化財:国指定

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みどころ

・河岸段丘を利用した立地

・江戸時代から現存する西櫓

・復元された櫓門、北櫓、南櫓

・土塁、隅落とし、水堀、堀

・石樋、真田石、真田井戸

 他

 

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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