伊達氏・上杉氏の居城
回字型輪郭式城郭
米沢市と聞いて何を思い浮かべるだろう。
日本三大和牛の一つ米沢牛であろうか。それとも色鮮やかな米沢織であろうか。
米沢の歴史は上杉氏を抜きにしては語れない。
あの奥州の覇者・伊達政宗を育てたのもここ米沢の地である。
伊達・上杉両氏が拠点としたのが今回紹介する米沢城だ。
美しい回字型輪郭式城郭で、2017年には続日本100名城にも選定された。
それでは数々の歴史や文化を生み出した米沢城を御堪能あれ。
目次
①米沢城の歴史
②独眼竜政宗
③小田原征伐
④鶺鴒の花押
⑤政宗転封
⑥米沢城の縄張り
・米沢城の歴史
米沢城は暦仁元年(1238年)大江時広が鎌倉幕府将軍・源頼朝から奥州討伐の功にて置賜群長井荘を賜り、名を長井へと改姓、米沢に城を築いたのが始まりとされている。以後約140年近く長井氏の居城となった。
・独眼竜政宗
天授6年(1380年)、伊達群(福島県)の領主だった伊達宗遠が置賜群に進攻。長井広房を鎌倉に敗走させ、以後212年間、置賜群は伊達領となる。天文17年(1548年)天文の乱が終結し、伊達家15代当主・伊達晴宗が本拠地を桑折西山城から米沢城へ移し居城とした。
その後次男・輝宗が家督を継ぎ、山形城の最上義守の娘・義姫を娶り、嫡子・政宗がここ米沢城にて誕生している(館山城との説もあり)。
輝宗は家中の分断を避けるため41歳の若さで隠居し、17歳の政宗が家督を継ぐ。
自身は館山城に隠居所を構え、米沢城を政宗に譲った。政宗は武将としての頭角を現し、瞬く間に周辺諸将を切り従えていった。
「人取り橋の戦い」では窮地を脱し、「摺上原の戦い」にて宿敵・蘆名氏を滅ぼし、若干24歳の政宗は、ついに奥州の覇者にまで上り詰めた。その石高約115万石。その異名を「独眼竜政宗」と称した。
そして次なる野望のために蘆名氏の拠点であった黒川城(会津若松城)に居城を移すのである。
・小田原討伐
しかし、その勢いも関東から西を手中に治めた関白・豊臣秀吉によって阻止される。
秀吉は大名が私的に戦を行う事を禁止した「惣無自令」を発しており、この自令を破った小田原の北条氏政は再三の釈明要求も拒否。ついに秀吉は激怒し北条討伐の兵を挙げるのである。その軍勢は22万。
蘆名氏を滅ぼした伊達政宗も討伐の対象となり、釈明を問われていた。釈明要求を誤魔化し続けてきた政宗であるが、ついに勝ち目がないと判断し、泣く泣く秀吉に屈することを決意する。
そして北条討伐に参加。秀吉との謁見を許されるのである。
政宗は死を覚悟し、死装束の姿にて秀吉に謁見。
恭順の意を示す政宗に対し秀吉は、政宗の首に刀を押し付け、「あと一歩遅ければそちの首が飛んでおった」と天下人の貫禄を見せつけたことは有名な話だ。政宗の釈明により伊達家討伐は免れた。北条家は滅亡し、秀吉が行った奥羽仕置にて政宗は会津領を没収。
会津は蒲生氏郷に与えられた。
奥羽仕置にて5千石から大崎・葛西の旧領、30万石の大名に取り立てられた木村吉清・清久親子が大崎・葛西の残党に襲われるという事件が起きる。木村吉清の統治は必要以上に年貢が厳しくし、多くの浪人を召し抱えたことにより領民に乱暴狼藉を繰り返し、不満が爆発。一揆が発生した。
一揆は拡大の一歩をたどり木村吉清の居城・寺池城も奪われてしまう。
実は一揆の首謀者は政宗であったとされている。
会津を召し上げられ、正室・愛姫を人質として取られ、奥羽の領民を苦しめた怒りにより、表向きは臣従を装い、裏で一揆を先導していた。
・鶺鴒の花押
しかし、伊達家臣・須田伯耆が政宗の密書を蒲生氏郷の陣所に持ち込み、企みが露見することとなる。すぐさま氏郷は秀吉に報告。
ことの次第を知ると政宗は愕然とした。すぐさま佐沼城に立て籠もる木村親子を救出。
一揆衆は一時撤退し、木村親子を助けたことにより無実を主張する。
しかし秀吉からは上洛命令が出され、政宗は事の真意を問われた。すぐさま米沢から京に向かい、途中、清州に鷹狩りに来ていた秀吉と謁見、清州城にて厳しい詮議が行われた。
無実を主張する政宗だが、蒲生氏郷は政宗の密書を謀反の証拠として提出。
その密書を問われた政宗は芝居気に大いに驚いて見せた事であろう。詮議の結果、密書は政宗の手として書かれたことは間違えがないとの判決が下る。
万事休す、と誰もが思った。
しかし政宗は声を荒げ言う、「まさしく自分の手に似ているが、政宗が書いた書状であれば鶺鴒の花押の目に、必ず針の穴を開けている、鶺鴒の花押に目が開いていれば本物、開いていなければ偽物である」と弁明をする。当時の書状には自身が書いたと証明する花押を書く風習があり、政宗は鶺鴒の形に似せて花押を書いていた。
政宗の言う通り、従来の書状には鶺鴒の花押に目が開いているが、密書には穴は開いていなかったのである。
秀吉は逆心は無しと判決を覆し、政宗を許すのである。
また逆心なければ京に上り、再度臣下の礼を尽くせとの命に従い、上洛をする。
政宗は死装束にて金の磔柱を担ぎ、初めて京に入る。これは政宗のデモンストレーションであろう。
京の都は政宗の話題で持ちきりとなり、大いに面目を施した。そんな人気のある政宗を秀吉は愛で、その才覚を認めたとされている。
またもや伊達家取りつぶしは免れたが、密書が見つかったことは事実。お咎め無しでは済まされなかった。
改めて一揆の鎮圧を命じられ、米沢へ帰国した政宗はすぐさま一揆討伐の兵を挙げる。
しかし鎮圧は容易ではなく一揆衆の激しい抵抗に遭い、重臣・浜田景隆、佐藤為信など多くの家臣が討ち死にしている。
今回の一件にて木村親子は大崎・葛西領を没収。後に木村吉清は蒲生氏郷を頼り客将として、文禄元年(1592年)信夫群(現在の福島市)5万石を与えられ、これまでの信夫群の中心・大森城から居城を杉目城へと移し「福島」と改称、名も福島城とした。これにより福島城を中心とした町割りが行われ、現在、福島県の中心となっている。
・政宗転封
政宗は大崎・葛西旧領30万石を与えられたが、所領12郡余72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)44万石を没収され蒲生氏郷に与えられた。これにより政宗の所領は19郡余58万石となった。
ここに伊達家による212年間の米沢の支配が終わり、岩出山城(宮城県)へと居城を移すのである。
ご存じの通り、その後政宗は仙台に城を築き、押しも押されぬ奥州王として62万石の大名へと成長していくのである。
その後の米沢城は44万石加増された会津92万石の蒲生氏郷に引き継がれ、米沢には蒲生家筆頭家老・蒲生郷安が7万石にて治め、米沢城の改修を行っている。氏郷は40歳の若さで病死し、嫡男・秀行が会津領を継ぐが、家臣達が御家騒動を招き、その咎めを受けて宇都宮18万石に減俸される。
会津には越後より上杉景勝が120万石にて入封し、そして米沢には重臣の直江兼続が30万石にて統治していくのである。
・米沢城の縄張り
それでは米沢城の縄張りを見ていこう。
東に松川、西に掘立川を天然の水堀とし、米沢盆地南側に築かれた城で、
中央に本丸を置き、二の丸、三の丸と「回」字型に本丸を囲み、各曲輪には幅約20mの水堀で敵の侵入を拒んだ輪郭式平城となっている。
天守はなく、本丸には2基の御三階櫓、二の丸には4基の二重櫓が築かれていた。
伊達氏は代々・奥州探題の御家柄、奥州の守護所がそのまま戦国期まで使われた印象だ。
上杉家も神指城、館山城にみられるように、石垣を築く技術はあったはずだが、財政難からか、徳川幕府から目をつけられていたからか、土塁を多用した土の城となっている。
簡素ながら風情を感じられる城である。現在、本丸には上杉神社として軍神・上杉謙信が祀られている。