伊達政宗誕生の城
会津地方への要衝
出羽国(山形県)の館山城はご存じであろうか。
独眼竜の異名を持つ伊達政宗生誕の地としても知られている。
平成13年(2001年)の発掘調査では大規模な縄張りと家臣団屋敷跡など多くの遺構が発見され、伊達氏時代の「米沢城」とは館山城ではなかったかとの説が有力視されるようになった。
米沢市最西部に位置し、会津方面の抑えとして重要視されてきたこの城は、後に米沢へ移封となった上杉氏も大規模な改修を行っており、上杉時代と思われる石垣も確認することができる。
館山城保存会の皆様や、地元の方々のご尽力により平成28年(2016年)には国史跡に指定され、数々の遺構を堪能することができる。
それでは地元の皆に愛されている城・出羽館山城をご堪能あれ。
目次
①館山城の歴史
②縄張りと遺構
③破城跡
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・館山城の歴史
館山城は米沢城より西に約4km離れた米沢盆地最大の山城で、小樽川と大樽川に挟まれた標高300mの舌状丘陵に築かれた天然の要害である。会津地方につながる街道が近くに通っており、水運や交通の要所を抑える役目もあった。
山麓には河岸段丘により作られた平場があり、ここに北館・東館と呼ばれた居館や家臣団屋敷を置いていたとされる。
館山城の築城時期や築城者の明確な史料はなく、初めて館山城の名が登場するのは、仙台藩伊達氏の「伊達治家記録」である。
史料によると政宗の父である伊達氏16代当主・伊達輝宗の家臣新田四郎義直の居城として登場し、義直は謀反の疑いにより、父・新田景綱より成敗され、その後は景綱が城主となっている。
輝宗は天正12年(1584年)に41歳の若さで政宗に家督を譲り、自身の隠居所として館山城を普請。この頃に山麓居館を築いたと思われる。
わずか1年後の天正13年(1585年)、輝宗が非業の最後を遂げることになる(栗之巣の変)。
天正15年(1587年)にも政宗が館山城の地割・普請を行っており、政宗もこの地を重要視していたことが窺える。しかし天正19年(1591年)には関白・豊臣秀吉の奥羽仕置により、岩出山に転封となりこの地を離れている。
慶長3年(1598年)には越後国から会津に上杉景勝が120万石で入封。
慶長6年(1601年)関ヶ原の合戦により西軍は敗れ、上杉氏は米沢30万石に減封された。
・縄張りと遺構
それでは館山城の縄張りを見ていこう。
要害である館山城は小樽川、大樽川を天然の水堀とし、舌状丘陵を活かした連郭式の縄張りで、東から腰曲輪、曲輪ⅰ、枡形虎口、曲輪ⅱ、虎口、曲輪ⅲ、物見台と並び、曲輪と曲輪の間には堀切と土塁で敵の侵入を拒み、曲輪ⅱと曲輪ⅲの間のは高さ5mはあろう巨大な土塁を配置。戦国初期では見事な土塁である。また各曲輪の入り口には虎口を配置。特に枡形虎口は素晴らしく、近世城郭を思わせる。
枡形虎口には石垣が多用され、石垣は表面を矢穴をで削り、加工する切込接の技術が使われている。これは慶長5年(1600年)関ケ原合戦以降の技術とされ、上杉氏が積んだ石垣と思われる。
上杉氏もこの城を重要視していたことが窺える。
・破城跡
その後、何らかの理由で城は取り壊されており、現在も石垣を安定させるために用いる栗石が散乱しており、堀切も埋め戻されている。これだけの破城跡が残る城も珍しい。
慶長14年(1609年)の直江兼続の書状には「一、館山之儀一切無用之事」と書かれており、憶測ではあるが徳川幕府から睨みを利かされ、戦に有利な山城を破城としたのか、また一国一城令により破城としたのか、明確な史料はなく謎のままである。
正保2年(1645年)の「出羽国米沢城下絵図」で館山城は古城と書かれておりこの時点では廃城となっていたと考えられている。
大正9年(1920年)には水力発電所が建設され、現在も東北電力の管理で稼動しており、同施設は近代産業遺産としての評価を受けている。
様々な不明点が多い城であるが保存状態も良好で、発掘調査では新たな出土品も多数発見されており、今後の発見が期待される。
注目の出羽・館山城。是非、足を運んでみてはいかがであろうか。
城データ
築城者:不明
主要城主:伊達氏、上杉氏
主な遺構:土塁、堀切、土橋、虎口、枡形虎口、井戸
所在地:山形県米沢市舘山
連絡先:0238-21-6111(米沢市教育委員会教育管理部文化課)
アクセス:JR米坂線「西米沢駅」徒歩約40分
東北中央自動車道「米沢中央IC」より車で約20分
無料駐車場有
指定文化財:国指定
みどころ
・伊達政宗誕生の地
・虎口、枡形虎口
・高さ5mを超える土塁、堀切
・珍しい破城跡
他
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