桜薫る・土の城
那須千本氏の居城
栃木県茂木町に千本という地名がある。
時は鎌倉時代、武士の覇権をかけた源平合戦にて、扇の的を射た那須与一の兄・那須為隆が平家滅亡に功をあげ、将軍・頼朝公よりこの地を領したが始まりだ。
標高240mに建てられたこの城は、南北に370m、東西に90mに広がる連郭式山城で、巨大な土塁や空堀の遺構が見事に残る。
本丸には羽黒神社が鎮座し、春には桜の名所としても知られている。
それでは桜薫る・土の城、千本城をご堪能あれ。
目次
①那須七騎・千本氏
②主家暗殺
③茂木千本氏
④千本城の縄張り
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
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・那須七騎・千本氏
千本氏は那須資隆が十男・為隆が千本氏を名乗り、千本城を築きこの地を治めたのが始まりだ。為隆は元弘3年(1333年)に新田義貞に従い鎌倉を攻め、鎌倉幕府を滅亡させる功績も残している。
主家である那須氏が拡大するにつれ千本氏も力をつけていき、那須氏を中心とした、那須一族である千本氏・蘆野氏・伊王野氏・福原氏、重臣の大関氏・大田原氏からなる那須七騎の一人に数えられている。
・主家暗殺
那須七騎はそれぞれ独立性が強く、しばしば主家の那須氏に背く事もあった。
特に大田原氏は那須氏の実権を自らの物にしようと企み、大関氏に長男・高増を、福原氏に次男・資孝を養子に出し、両氏を掌握することに成功する。
そして主家である那須高資の廃嫡を画策する。
那須氏19代当主・那須高資の母は岩城氏出身で、大田原氏出身の母をもつ弟の資胤を那須氏当主に据えようとしたのである。
千本氏を巻き込み高資の暗殺を企てる。
しかし高資に計画が漏れてしまい、弟・資胤が追われる立場となった。
こうして那須家中分裂の危機となったが、重臣達の奔走によって、資胤を国外追放をするという処分にて収まっている。
資胤はその後、千本資俊を頼って千本城へと身を隠した。
高資は、天文17年(1548年)那須領の西部にある、喜連川五月女坂に侵攻してきた宇都宮尚綱を討っており、この内紛を好機とみた宇都宮広綱は父である尚綱の敵を討つため、家臣の芳賀高定に命じて千本氏と今一度、高資暗殺の謀略を練った。
そして天文20年(1551年)、正月下旬に馬好きであった烏山城主・那須高資に名馬が入ったのでご覧にいれたいと、千本城に招き大いにもてなした。そして酔いつぶれた高資を暗殺するのである。
当然、家中で千本氏討伐の声もあがったが、大田原氏、福原氏、大関氏が味方となり、計画通りに資胤が第20代那須氏当主となって千本氏を擁護した。
千本氏は資胤に忠誠を誓い、永禄10年(1567年)佐竹勢の侵攻に対しては、茂木三郎とこれを迎え撃ち大崖山にて佐竹勢を打ち破る功を挙げている。
元亀3年(1572年)には、佐竹義斯と対談し、那須氏と佐竹氏の和睦を成立させた。
こうして佐竹義重の嫡子・義宣の正室に資胤の三女・後の正洞院が迎えられ、長年繰り返されてきた那須氏と佐竹氏の戦いは終息したのである。
この那須氏と佐竹氏の和睦は、勢力を拡大し続ける小田原北条氏に対抗する、佐竹義重を中心とした反小田原北条連合軍「東方之衆」に那須氏が帰属したことでもあった。
天正2年(1574年)、佐竹氏・那須氏・宇都宮氏・結城氏らの東方之衆が壬生城を攻撃したとき、千本資俊は当主・資胤の代官として参戦している。
資胤の信頼厚く、那須七騎の中でも力を付けていった。
しかし嫡子・千本資政が大関高増の娘と離縁したことで大関氏の怒りを買い、天正13年(1585年)12月に大関氏、福原氏、大田原氏の三兄弟の陰謀によって資俊・資政、父子ともに殺害されるのである。
・茂木千本氏
こうして千本氏は途絶えるが、那須氏第21代当主・那須資晴の計らいで茂木義政に千本城を与え、義政は千本義隆を名乗り、茂木系千本氏として復活するのである。
天正18年(1590年)小田原征伐時には、主家・那須資晴が小田原参陣を渋ったため、嫡男・義定とともに小田原へ参陣。
その功によって2070石の旗本となった。
その後は豊臣秀吉に属し、朝鮮の役には肥前国名護屋城まで赴いている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦時には上杉征伐に参加し、下野国黒羽城城主・大関資増とともに奥州境目の防衛にあたった。
その功により1000石の加増と、宇都宮にて後の将軍・徳川秀忠から郷義弘の太刀を賜わったとされている。
「大阪冬の陣」「夏の陣」にも参加し功を挙げ、千本氏は3370石の徳川旗本として存続し、明治維新を迎えている。
・千本城の縄張り
千本城は南北に370m、東西に90mに広がる連郭式山城で、最北端に本丸を配置し、南に二ノ丸、三ノ丸にあたる屋敷跡、屋敷跡と称した曲輪を配置し、最南端には那須高資を祀った天正八幡宮があったとされている。
本丸の周囲は土塁で囲み侵入口には虎口を配置、本丸を囲むように北側、東側は腰曲輪があり、石垣と思われる遺構も確認できる。
本丸には現在、羽黒神社が鎮座している。
本丸より約5m程下がった所に二ノ丸があり、二ノ丸から見上げる土塁は見事である。
二ノ丸入口には虎口を配置し、高さ3mはあろう土塁にて容易に侵入できない。
連続して屋敷跡が続き、天正八幡宮跡との間には空堀も確認できる。
最南端の天正八幡宮跡には礎石跡があり当時の情景を思わせる、ここからの眺望は見事で、宇都宮市街、遠くは富士山まで見渡すことができる。
千本城は金城鉄壁といわれていたが、水の手に恵まれていなかった。江戸中期以後は城の南側山麓に陣屋が築かれている。
千本御陣屋として政治の中心が移っている。
この陣屋は敷地479坪あり、本屋52坪、隠居所12坪、馬小屋8坪の建屋があったとされるが、昭和9年(1934年)に火災のため焼失している。現在はわずかな石垣・池跡などが確認できる。
千本城は昭和45年(1970年)2月に栃木県指定文化財に登録された。
多くの遺構が良好に残り、当時の情景を今に伝えている。
城データ
城名:千本城、須藤城、教ヶ岡城
築城者:千本為隆
主要城主:千本氏
主な遺構:土塁、空堀、虎口、天正八幡宮跡
所在地:栃木県芳賀郡茂木町町田1380
連絡先:0285-64-1023(ふみの森もてぎ 図書文化係)
アクセス:北関東自動車道「真岡IC」から約40分
真岡鉄道「真岡駅」から徒歩で約1時間30分、車で約15分
駐車場:有り
指定文化財:県指定
みどころ
・高さ5mはあろう土塁
・食い違い虎口
・春に咲く満開の桜
・最南端にある天正八幡宮跡
・千本陣屋跡
他
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