大胡城

巨大な土塁と堀に守られた

藤原秀郷末裔の城

 

大胡城は詳しい年代や築城者等、資料が少なく不明な点が多いが、藤原秀郷の末裔である大胡氏がこの地を治め、築城したのが始まりとされている。

みどころは何と言っても本丸を囲む高低差10mはある土塁と堀であろう。

縄張りは丘陵180mの頂上に本丸を置き、南から南郭・三の丸・二の丸・本丸と続き、北に北郭・近戸郭と南北670mの連郭式平山城である。東には荒砥川を天然の水堀とし、荒砥川の急流で浸食された本丸東側には急勾配の崖ができ、天然の要害となっている。

現在残っている遺構は1590年小田原討伐後に関東に入封した徳川家康家臣・牧野時代の物で、小さな城ながら見ごたえがある。

特に桜の時期はおすすめで素晴らしい景観に出会えるだろう。

それでは大胡城をご堪能あれ。

大胡城

 

目次

①大胡城の歴史
②変わる城主
③城データ(所在地はこちら)
④みどころ
⑤おすすめ記事

 

・大胡城の歴史

こんな所に城があったなんて…。

期待を膨らませながらトンネルをくぐると、!!

まず現れたのは巨大な土塁であった。

二の丸が駐車場になっており、車を停車すると目の前には枡形門跡がお出迎え。

大胡城

桜と虎口が最高である。

少ないながらも当時の物であろう石垣の遺構も素晴らしい。

土塁と堀は見事で、本丸の周囲を囲み堅城となしている。

大胡城

大胡城

大胡城は代々大胡氏の居城であった、戦国期に太田金山城の岩松氏の家臣・横瀬国繁に城を奪われ敗走。その後北条氏の家臣となり、後に牛込氏を名乗ったそうだ。

 

 

当地に残った大胡一族には城を維持する力がなく、横瀬国繁・上杉謙信に従い城主には同族の益田氏が入り居城とした。

大胡氏の一族には新陰流の祖・上泉信綱がおり、一説には上泉氏が当地を収めたともいう。

大胡城

大胡城

・変わる城主

その後、上野国は越後上杉氏、甲斐武田氏、小田原北条氏との大国同士の争いが激しく、横瀬氏が上杉氏から小田原北条氏に寝返ると、謙信自ら出陣し大胡城を攻略。

北条高広を城主におく。

ところが北条高広も小田原北条氏の誘いに乗り謀反。

後に越相同盟が結ばれ、高広は帰参を許されて厩橋(前橋)城城主となっている。

高広は子の景広に前橋城を譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。

再び大胡城は上杉謙信が治める事となる。

大胡城

大胡城

上杉謙信が没すると、養子である上杉景勝(謙信姉の子)と景虎(北条氏康の子)の跡目争いが勃発(御館の乱)。

北条高広は景勝側に付き交戦。景虎は小田原北条氏の画策により周辺大名を味方に付け奮戦するも、景勝側と武田勝頼との間に越甲同盟が成立し形勢が逆転。

北条高広は武田氏に属し、大胡城には親族の大胡高繁を城主とする。

大胡城

大胡城

しかし武田氏も織田信長に攻められ滅亡。

滝川氏、真田氏、小田原北条氏と従うが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡。大胡高繁も所領を没収され、徳川家康が関八州の支配者となった。

大胡城には家臣・牧野康成が2万石にて入城し、現在の縄張りへと整備された。

 

 

大胡城

大胡城

大胡城

元和2年(1616年)牧野氏は5万石にて越後長峰に転封され、前橋城主・酒井氏の管轄となった。その後、酒井氏が播磨姫路に転封となり大胡城は廃城を迎える。

大胡城

 

城データ

城名:大胡城

築城者:不明

主要城主:大胡氏、横瀬氏、北条氏、牧野氏、酒井氏

主な遺構:土塁、堀、土橋、石垣、枡形門跡

所在地:群馬県前橋市河原浜町600-1

連絡先:027-231-9531(前橋市文化財保護課)

アクセス:伊勢崎ICから11km 車で約20分

     上毛電鉄「大胡駅」より1km 徒歩約10分

無料駐車場有

指定文化財:県指定

GoogleMap

 

みどころ

高低差約10m以上の土塁、堀

本丸跡、本丸門跡、石垣

鉄壁を誇る二の丸

土橋

満開に咲く桜

 

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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