小田城

戦国最弱?小田氏の居城

不死鳥と呼ばれた武将

 

戦国最弱と呼ばれた武将・小田氏治の居城、小田城を紹介したい。

常陸国(現在の茨城県)別名・小田山とも言われる宝篋山(ほうきょうさん)山麓に築かれた中世式の館・小田城。

昭和10年(1935年)には国史跡に指定され、史跡指定範囲21万7千㎡と広大で、現在は「小田城跡歴史ひろば」として堀や土塁など良好な形で保存、復元されている。

小田氏15代当主・氏治の時代に9度も落城を経験した全国でも類を見ない城で、戦国ファンの中でも高い人気がある。

では、戦国最弱?小田氏の居城・小田城を御堪能あれ。

小田城

 

目次

①小田城の歴史
②15代当主・氏治
③9度の落城
④小田原討伐とその後
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事

 

・小田城の歴史

小田城は古くは鎌倉時代、将軍・源頼朝から信頼が厚かった八田(はった)知家がこの地を収め、築城したのが始まりとされているが、4代・時知の時代に小田氏を名乗り、築城をしたとの説もある。

築城年数は1183~1241年の間と推測される。

いずれにしても祖・八田氏より小田氏400年間の居城として活躍する。

小田氏は関東八屋形(宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏)にも列せられる名家で、それぞれ守護職についた家柄である。

城の構造は典型的な中世式の館で、東に宝篋山、西には桜川と天然の地形を利用し、本丸を中心に輪郭式に郭を設け、幅20~30m、深さ5mの堀、高さ2mはあろう土塁で囲み、出入り口には四方50mの馬出しを配置、本丸門前には木橋と、戦のたびに城は強化され館から城郭へと変貌していった。

小田城

小田城

・15代当主・氏治

筆者も登城したが素晴らしい平城であった。そんな平城がなぜ9度も落城したのか。

では最弱と呼ばれた15代当主・氏治と小田城の生涯を見ていこう。

12歳で初陣を飾った氏治。初陣の戦は関東覇権を争う戦であった。

天文15年(1546年)関東へ侵出してきた後北条氏に対し、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方氏の連合軍8万の大軍で武蔵国(埼玉県)河越城を攻めた戦いだ。

この連合軍に氏治が参加をしていたのである。

攻める相手は河越城に籠る北条綱成率いる兵3千。

8万 対 3千。

圧倒的な兵力差がある戦のため、誰もが連合軍の勝利を疑わなかった。

 

 

しかし、援軍に駆け付けた北条氏康の本隊8千の兵にて夜襲に合い、連合軍は敗走。

1万3千人の死者を出した。

世に名高い日本三大奇襲の一つ、河越の夜戦である。

河越の野戦が初陣なんて氏治公もってますね~

その2年後の天文17年(1548年)父・政治が77歳で死去。氏治は14歳で家督を継ぎ、小田15代当主となる。

この頃の関東の勢力図は大きく変わり、小田氏は河越の夜戦にて山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方氏を滅ぼした相模の後北条氏、常陸を収める佐竹氏、戦国最強と呼ばれる越後上杉氏、と強豪に囲まれていた。

・9度の落城

家督を継いだ氏治の最大の敵は、下総(茨城県西部)を収める結城氏で、

結城氏は北条氏と誼を通じ、小田氏を攻撃。下妻城主・多賀谷政経を降伏させる。

一方、氏治は佐竹氏と手を組み、結城政勝を攻撃。海老ケ島の戦いだ。

結城氏は北条軍に援軍を求め、南からも攻められた小田軍は敗走。海老ケ島城は落城し、小田城も奪われてしまう(1回目落城)。仕方なく土浦城へ敗走。

しかし、常陸進出を狙う後北条氏は氏治と和解。

佐竹氏を裏切り北条氏を味方につけた氏治は、海老ケ島城、小田城を奪還する。

小田城

弘治3年(1557年)、今度は佐竹義昭と多賀谷政経が連合し海老ケ島城に戦を仕掛けてきた。氏治は多賀谷政経の居城・下妻城を攻めるも、救援に駆け付けた佐竹義昭に敗れ土浦城へ敗走。

またもや小田城を奪われてしまう(2回目落城)。

だが、氏治の家臣・菅谷政貞が隙をみて小田城を攻撃、小田城の奪還に成功した。

永禄元年(1558年)、またもや佐竹義昭と多賀谷政経が連合し小田城を攻撃。

籠城するも、攻撃を防ぎきれず土浦城へ敗走(3回目落城)。

この頃の小田城は防御には不向きだったのか、義昭は少人数の兵を残し帰国。

氏治は隙を見て、小田城を奪還している。

永禄2年(1559年)、宿敵・結城政勝が56歳で病死。

この機に乗じ結城領へ攻め入るも、下野国(栃木県)の小山氏、佐竹家家臣・鬼真壁と恐れられる真壁氏幹に阻まれ敗走。逆襲に合い海老ケ島城は落城し、城主・平塚自省は討ち死にしてしまう。

 

 

永禄3年(1560年)、関東管領職を賜った越後・上杉謙信は後北条討伐のために兵をあげ関東へ出陣。氏治を含む多くの関東諸将が謙信に従った。

永禄4年(1561年)には後北条氏の本拠地・小田原城を11万の大軍で囲むも、落城には至らず、謙信は越後へと帰国している。

永禄5年(1562年)氏治は海老ケ島城奪還のために帰国した上杉氏を裏切り、再び後北条氏と手を組み、海老ケ島城を攻撃する。

その報を聞いた謙信は激怒。神速で小田討伐に出陣。

戦国最強と呼ばれた上杉謙信 対 戦国最弱と呼ばれた小田氏治の戦いだ。

氏治は果敢にも山王堂にて謙信を迎え撃つ。が、大敗。

小田城は落城し、氏治は藤沢城へ敗走する(4回目落城)。

落城した小田城は敵対する佐竹氏に譲られた。

小田城

小田城

同年、謙信が帰国するやいやな、またもや小田城奪還に成功。

しかしすぐさま佐竹氏の反撃に合いまたしても大敗してしまうのである(5回目落城)。

永禄9年(1566年)、佐竹義昭が病死。

この機に乗じ混乱する佐竹軍を攻め、小田城の奪還に成功。

しかし、義に熱い上杉謙信は、混乱に乗じ佐竹を攻めた氏治に激怒。再び小田城は落城し、土浦城へ敗走する(6回目落城)。氏治は結城晴朝を介し、上杉謙信に降伏を申し入れ、小田城を修復しないことを条件に帰城を許されて所領を安堵された。

これに納得がいかない佐竹義昭の息子・義重は永禄12年(1569年)、小田城へ進軍。

またもや氏治は敗北。小田城は落城し、藤沢城へ敗走する(7回目落城)。

この時は、小田城内に内応者を作り小田城の奪還に成功する。

小田城

元亀4年(1573年)大晦日、またもや佐竹軍からの攻撃を受ける。

小田城では大晦日に毎年恒例の連歌会を行う風習があり、そこを攻撃されたのである。油断していた小田軍は為す術もなく敗走。小田城を奪われてしまう(8回目落城)。

しかし氏治は直ちに体制を整え、小田領民たちの力も借り5千5百の兵にて佐竹軍を破ったのである。

またもや小田城奪還に成功するのである。

元亀4年(1573年)3月、氏治、最大の合戦となった手這坂の戦い。

進軍してきた佐竹軍に対し、籠城を唱える家臣団。

氏治は家臣団の忠告を聞かず、城を出て野戦に持ち込む。

佐竹軍は手這坂の坂上に陣を張り、小田軍は平地に陣を張り両軍睨み合いになった。

坂上の佐竹軍は意外にも兵数が少なく、氏治は好機とみて全軍で突撃を開始する。

しかし突撃する小田軍に鉄砲を集中砲火。伏せ兵も現れ大混乱を起こし、藤沢城へ敗走。

またしても小田城は落城するのである(9回目落城)。

大敗を期した小田軍は勢力を失い、佐竹義重に数々の城を奪われてしまう。

小田城

小田城

・小田原討伐とその後

天正18年(1590年)、先祖代々の居城・小田城奪還に執念を燃やす氏治は、執拗に小田城攻めるが、もう一歩のところまで追いつめるも佐竹軍に援軍が到着。

結局、大敗を喫するのである。この戦で多くの家臣を失った氏治は後北条家へ援軍を要請。しかし、後北条家は関白・豊臣秀吉と戦の真っ最中。小田原討伐である。援軍を出すどころではなかった。

 

 

小田城奪還しか考えていなかった氏治は時勢を読めなかったのである。

結果、小田原討伐に参陣せず、豊臣秀吉により所領は没収。

鎌倉時代より続いた名家・小田氏は15代にて滅びるのである。

小田城

小田城

何度奪われても不死鳥のように居城・小田城を取り戻す氏治。

その人柄に家臣、領民共に氏治を慕い付いて行ったのではないか。

こんな逸話が残っている。

領民達は何度も小田城へ戻ってくる氏治を慕い、氏治以外の領主には年貢を納めなかったという。

また敵将の佐竹義重は上杉謙信に氏治をこう評している。

「氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、右大将家(源頼朝)以来、名望のある豪家であり、氏治もまた普通に優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている」(『関八州古戦録』)と。

後に秀吉に謁見。

その罪を許され、結城秀康の客分として300石を与えられ結城氏転封にて越前(福井県)に移り、68、もしくは71年の生涯を終えた。

その後、小田城は佐竹家家臣・梶原政景、小場義成が城主となるが、慶長7年(1602年)佐竹氏の出羽国秋田移封により廃城を迎えるのである。

(合戦時期は諸説あります。)

小田城

 

城データ

城名:小田城

築城者:八田知家または小田時知

主要城主:八田氏、小田氏、佐竹氏

主な遺構:土塁、空堀、馬出

所在地:茨城県つくば市小田2377(小田城跡歴史ひろば)

連絡先:029-867-4070(小田城跡歴史ひろば案内所)

アクセス:JR常磐線土浦駅から関東鉄道バス「筑波山口行、下妻駅行」で「小田」下車、徒歩約10分 つくばエクスプレスつくば駅から「つくバス」小田シャトルで「小田東部」、「小田中部」下車、徒歩約5分。常磐自動車道「土浦北IC」から車で約15分

指定文化財:国指定

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みどころ

・本丸を囲む空堀、土塁

・南西馬出曲輪

・木橋

・遺構展示室

    他

 

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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