織田家重臣・丹羽家居城
戊辰悲話の地
「☓」旗が掲げられている城。
それは織田家重臣・丹羽長秀で有名な丹羽家の家紋「☓」(すじかいもん)である。
二本松初代藩主・光重より約220年間、丹羽家の居城として活躍した二本松城。
本丸石垣、搦手門跡、箕輪門、日本三大井戸の一つ日影の井戸など数多くの遺構を残し、多くの戦国を感じられる城である。
畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏とへて、丹羽氏へと引き継がれ、数々の変貌を遂げてきた。それでは中世から近世の築城技術が詰め込められた二本松城を御堪能あれ。
目次
①二本松城の歴史
②戊辰戦争の悲劇
③二本松城のみどころ
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・二本松城の歴史
二本松城は標高345mの白旗ヶ峰を中心として、三方が丘陵で囲まれた馬蹄式城郭で、自然の地形を巧みに活かした堅城である。特に場内の水の豊富さには圧巻で、安達太良山麓の湧き水を、18kmもの距離を城内に引き込み、その湧き水を利用した藩主庭園は見事で四季折々の情景を楽しむ事ができる。
室町初代将軍・足利尊氏が畠山国氏を奥州管領職に任じ、二本松と改称をしてこの地を治めたのが始まりだ。畠山代当主・畠山満泰によって二本松城は築城された。
時は1585年(天正13年)、15代当主・義継は、近隣諸将を次々と従える伊達政宗に降伏を決意する。
降伏の取次ぎをしてもらおうと政宗の父、輝宗がいる隠居所を訪れるが、政宗から厳しい降伏条件を出され、降伏を断念。追いつめられた義継は輝宗を拉致し、徹底抗戦を覚悟する。
輝宗を二本松城へ連れ去ろうと阿武隈川まで達したが、駆け付けた政宗の決断によって輝宗ものとも義継は射殺された(栗之巣の変)。
同年1585年(天正13年)、豊臣秀吉は朝廷の最高官位である関白に就任。
既に天下は定まろうとしていた。
関白・秀吉は各諸将に惣無事令を発令し、大名間での私闘を禁じた。
父の敵を討つべく政宗は、関白・秀吉の惣無事令には従わず、すぐさま二本松城攻めを開始。
1万3千もの大軍で攻め立てた。
対する畠山氏は義継の長男・国王丸を立て籠城。
この戦いでも二本松城は伊達軍の猛攻を何度も跳ね返し、その堅城さを天下に知らしめた。
苦戦を強いられる伊達軍。何としても攻め滅ぼしたい政宗は内部から切り崩しを計る。
ついに家臣の裏切りにて二本松城は開城。畠山氏は滅亡した。
二本松城を手中に治めた政宗は、東北の雄・蘆名氏をも滅ぼし、ついには奥州の覇者となったのである。
しかし奥州の覇者となった政宗にも巨大な敵が現れる。
関東から西を手中に治めた関白・豊臣秀吉である。
政宗は秀吉の圧倒的な兵力差に降伏。惣無事令を無視した罪により、伊達家は岩出山に転封となる。その後二本松城は会津若松に入った蒲生氏郷の支城となり、西国の築城技術が導入。織豊城郭へと生まれ変わるのである。
その後、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明と城主が入れ代わり、1643年(寛永20年)に白河小峰城より、丹羽長秀の孫にあたる光重が10万700石にて入城。
築城に長けた丹羽家は、10年の歳月をかけ二本松城を大改修。
明治維新までの220余年間、丹羽氏の居城として栄える事となる。
・戊辰戦争の悲劇
1868年(慶応4年)、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加。新政府軍と交戦した。
二本松軍が白河口に出向いている隙を狙われ、新政府軍が二本松城の攻撃を開始。
二本松軍は圧倒的な兵力不足で、臨時に編成されたのが12~17歳の少年からなる
『二本松少年隊』だ。
少年たちは生まれ育った牙城を守るため、自ら志願して戦いに臨んだ。出陣許可が出た少年たちの様子を「二本松戊辰少年隊記」には、こう記されている。
「七月二十六日の朝、俄然余等(がぜんよら)に出陣の命下る。余等の満足例うるに物なし。」「許可せられ雀躍(じゃくやく)して喜べり(こ踊りして喜ぶこと)。」と、喜び勇んで出陣した様子が描かれている。しかし、わずかな兵にて奮戦するも、二本松城は1日にて落城。多くの戦死者を出した。
降伏の際、城代であった丹羽和左衛門は、床几に腰を下ろし、軍扇を膝の上に広げ割腹したのち、内臓を軍扇の上につかみ出し絶命したとの壮絶な最期が伝えられている。
二本松少年隊も多くの戦死者を出し、戊辰戦争の悲話として現在も語り継がれている。
・二本松城のみどころ
二本松城には良好に遺構が残り、
昭和57年に再建された箕輪門、三ノ丸石垣、数々の池や滝がある藩主庭園、安達太良山麓から引き込んだ二合田用水、土塁、堀跡、見事な搦手門跡、深さ14m底から北側に12m横堀された日本三大井戸の一つ、日影の井戸、本丸石垣などなど多数ある。
別名・霞ヶ城として名をもつこの城は霞ヶ城公園として整備され、日本100名城、日本さくら100選にも選ばれ、秋には紅葉や菊祭りで賑わい、四季折々の風景を楽しむことができる。是非、足を運んでみたらいかがであろうか。
城データ
城名:二本松城、霞ヶ城、霧ヶ城、白旗城
築城者:畠山満泰
主要城主:畠山氏、伊達氏、蒲生氏、加藤氏、丹羽氏
主な遺構:本丸石垣、三ノ丸石垣、庭園、土塁堀跡
搦手門跡、日影の井戸、箕輪門
所在地:福島県二本松市郭内3丁目
連絡先:0243-23-1111(二本松市教育員会文化課)
アクセス:JR東北本線「二本松」駅から徒歩約20分
二本松ICより車で約10分
無料駐車場有
日本100名城
指定文化財:国指定
みどころ
・土塁、堀跡・見事な搦手門・跡箕輪門
・初期・中期・後期の石垣
・安達太良山麓から引き込んだ二合田用水
・茶室・茶亭洗心亭、数々の池や滝がある藩主庭園
・深さ14m底から北側に12m横堀された
・日本三大井戸の一つ日影の井戸
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