名胡桃城

歴史を変えた城

河岸段丘に築かれた連郭式の名城

 

ここに歴史を変えた城がある。

天正13年(1585年)豊臣秀吉が公家の最高位である関白に就任する。

すでに徳川家康は関白・豊臣秀吉に降り、天下は定まろうとしていた。

残る敵は相模国・北条氏と奥羽国・伊達氏だ。

秀吉は関白の命にて、大名同士が私的に争うことを禁じる惣無事令を発し、いまだ戦いが止まない関東で戦を禁じる。

しかしこの命に反し、名胡桃城にて再び戦が起きるのである。

それでは歴史を変えるきっかけとなった城・名胡桃城を御堪能あれ。

名胡桃城

 

目次

①名胡桃城の歴史
②縄張りと遺構
③天正壬午の乱
④関東惣無事令発令
⑤名胡桃城事件
⑥城データ(所在地はこちら)
⑦みどころ
⑧おすすめ記事

 

・名胡桃城の歴史

名胡桃城は室町時代、沼田氏の一族である名胡桃氏によって築かれたとされている。

詳しい資料はなく、砦であったのか、館であったのか不明であり詳細はわかっていない。

時は450年前、上野国(現・群馬県)では越後国(現・新潟県)・上杉氏、相模国(現・神奈川県)・北条氏・の二大勢力が激しい領土争いを続けていた。

弘治年間(1555~1558年)相模の北条氏が上野国に進行、沼田城の沼田氏を追放し利根・沼田一帯を支配する。

 

 

弘治3年(1560年)、今度は関東管領職に就いた越後の上杉謙信が関東平定のため、沼田城、名胡桃一帯を攻略。さらに厩橋、武蔵へと進み北条の本拠地・小田原城を包囲。北条氏と対峙した。

以後10余年間、名胡桃は上杉氏の支配下にあったが、天正6年(1578年)謙信が病没すると、再び北条氏が北上。沼田城、名胡桃一帯を攻略する。

名胡桃城

謙信亡き跡を継いだ上杉景勝は甲斐国・武田勝頼と甲越同盟を結び、北条氏と対決する。勝頼は真田昌幸に上野国攻略を指示。名胡桃一帯は西の武田軍からも攻略を受けるのである。

名胡桃城

昌幸は得意の調略を駆使し着々と軍を進める。

次々と城や砦を攻略し、名胡桃城も攻略。次なる目標を沼田城と定め、沼田攻略の最前線基地として名胡桃城を要塞へと築き上げるのである。

 

 

名胡桃城

名胡桃城

名胡桃城

・縄張りと遺構

名胡桃城は利根川よりできた河岸段丘の舌状台地に築かれた天然の要害である。

三方が崖となり、笹郭、本郭、二の郭、三の郭と串団子状に連郭式で並び、二の郭北側には般若郭を配置。

各郭は急な崖や、石垣、みごとな堀で分断され独立し、三の郭前には甲州流築城術にみられる、丸馬出と三日月掘が築かれたことが発掘調査で確認されている。

名胡桃城

名胡桃城

名胡桃城

二の郭の南北入口には食い違い虎口を配置。

三の郭は後から増築されたことが分かっており、二の郭の虎口は郭内にあることから、改修時にここが本丸となったことが推測される。

 

 

名胡桃城

名胡桃城

近年の調査により、二の郭、三の郭の外周部では土塁の基礎部に高さ1mの野面積みの石垣が確認され、関東でも石垣の技術があったことを物語っている。

名胡桃城

名胡桃城

小さな城ながらも、さすがは真田の城だ。

名胡桃城

この名胡桃城を拠点に真田氏は沼田城の攻略を開始。

様々な策を巡らし、天正8年(1580年)戦わずにして沼田城を奪い取ることに成功する。

しかしこの2年後の天正10年(1582年)に主君・武田勝頼が織田軍に敗れ天目山にて自害。武田氏は滅亡してしまう。

 

 

名胡桃城

主君を失った真田氏は一時織田方に付くが、その3か月後、織田信長は本能寺の変にて明智光秀に討たれた。統治者を失った甲斐、信濃、上野は混迷し、上杉・徳川・北条氏の三つ巴の戦い「天正壬午の乱」へと発展していくのである。

名胡桃城

・天正壬午の乱

昌幸の動きは迅速だった。

織田方だった沼田城だが、すかさず叔父の矢沢頼綱を沼田城へ進攻させ奪還。領土拡大を狙う。

しかし越後から上杉景勝が北信濃へ進攻してきた。

勝ち目がないと判断した昌幸は上杉氏に降伏する。

だが今度は大軍を率い、北条が上野へ進攻。

昌幸は北条氏へ降伏。北条氏直に従い信濃・甲斐へと兵を進めるのである。

 

 

ここで北条と上杉が講和を結ぶこととなる。 北条・上杉 対 徳川の構図となり旧武田領は激戦が繰り広げられた。

しかし北条 対 徳川で行われた黒駒の合戦により徳川勢が勝利する。

この勝利にて多くの諸将が徳川側に寝返り、昌幸も北条を見限り徳川側へ付いた。

しかし今度は、徳川・北条の間に同盟が成立することとなる。

講和の条件として、北条方は沼田城の返還を要求してきた。これに了承した家康だが、当然、昌幸は拒否をする。徳川氏との関係は悪化していった。

こうして昌幸は再び上杉方に寝返るのである。

名胡桃城

・惣無事令発令

その後、北条氏との戦いが続いたが、天正13年(1585年)、ついに豊臣秀吉が公家の最高位である関白に就任する。すでに徳川家康は関白・豊臣秀吉に降った。

秀吉は関白の命にて、大名同士が私的に争うことを禁じる惣無事令を発し、いまだ戦いが止まない関東に戦を禁じるのである。

名胡桃城

秀吉は北条氏にも上洛を促した。

北条氏は上洛の条件として、真田領の利根・吾妻を要求する。

この条件を昌幸に示すと「沼田城は渡しても名胡桃城は渡せない」とこれを断固拒否。

真田と北条の睨み合いが続いた。

 

 

名胡桃城

ついに秀吉は天正17年(1589年)この「沼田領問題」に判決を下す。

『昌幸が領有する沼田領を分割し、利根川を境として名胡桃城を含む3分の1は真田氏に、沼田城を含む3分の2は北条氏に譲渡する』とした。

天正17年(1589年)7月、沼田城受け取りのため北条氏堯が小田原から出向き、秀吉の命にて徳川方の榊原康政が介添えに参加した。

無事引き渡しは終了し、沼田城城主は北条氏邦、城代に猪俣邦憲が入った。

名胡桃城

名胡桃城

・名胡桃事件

利根川を挟み、名胡桃城、沼田城の間には極度の緊張状態が続いた。

そして3か月後の10月下旬。

猪俣邦憲が偽りの書状で名胡桃城城主・鈴木重則を騙し、名胡桃城を攻撃。

名胡桃城は落城してしまう。

重則は必死に奪還を試みるも果たせず、責任を取り正覚寺にて切腹。

名胡桃城

真田方に激震が走った。

秀吉はこれを知ると大激怒。

北条氏に宣戦布告し、天正18年(1590年)3月、22万の大軍を率いて小田原へ進攻。小田原城を包囲する。

世に名高い「小田原征伐」である。

 

 

名胡桃城

名胡桃城

北条方の数々の城は落城し、同年7月、4カ月の籠城の末、北条氏は降伏。

北条氏は滅亡し、奥羽国の伊達氏は降伏。

この「名胡桃事件」をきっかけに、豊臣秀吉は天下を治めたのである。

名胡桃城

名胡桃城

その後、利根・吾妻には真田氏が入り、真田昌幸が嫡男・信之が初代沼田藩主となった。

小田原征伐後、役目を終えた名胡桃城は廃城となり、2017年(平成29年)続・日本100名城に選定され、その遺構を現在に伝えている。

名胡桃城

 

城データ

城名:名胡桃城

築城者:名胡桃氏・真田昌幸

主要城主:名胡桃氏、上杉氏、北条氏、真田氏

主な遺構:土塁、空堀、切岸、木橋、丸馬出跡、食い違い虎口

所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津3462ー2

連絡先:0278-62-0401(みなかみ町観光協会)

駐車場:無料駐車場有

名胡桃城観光案内所あり

アクセス:JR上越新幹線「上毛高原駅」から徒歩で約45分、JR上越線「後閑駅」から

     徒歩で約40分 関越自動車道 月夜野I.Cから車で約6分

GoogleMap

 

みどころ

・河岸段丘に築かれた連郭式

・土塁、堀、食い違い虎口、木橋

・歴史を変えるきっかけとなった城

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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