三春城

陸奥国の雄・田村氏の居城

伊達政宗正室・愛姫の故郷

 

皆さんは大河ドラマはお好きだろうか?

大河ドラマの名作の一つといえば山岡荘八先生が描いた「独眼竜・政宗」であろう。

素晴らしい俳優さん達の名演技にて実にリアルに戦国の世を描いてる。

大河ドラマ歴代視聴率1位の名作中の名作である。

私も全巻DVDを購入し、今でも暇さえあれば鑑賞している。その面白さに小説も購入し、瞬く間に全巻読破した。

そこに描かれているのは、奥州の覇者・伊達政宗の生涯である。その正室・愛姫も健気に政宗を支え続けた1人だ。政宗と共に仙台62万石を築き上げた。

今回紹介する城は愛姫が故郷・三春城である。

それでは三春城を御堪能あれ。

三春城

 

目次

①三春城の歴史
②田村家激震
③小田原征伐後
④三春城縄張り
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事

 

・三春城の歴史

三春城は永正元年(1504年)、田村義顕により築城されたと伝えられ、郡山市にある守山城より田村郡中央に位置する三春城へと本拠を移し、以後、東北の雄・田村氏の居城として活躍する。

田村氏は平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の末裔ともいわれ、陸奥国の田村郡(現・郡山市、田村市、三春町、小野町)を支配していた。

 

 

三春城

三春城

この辺りは仙道と呼ばれた街道が走っており関東へと繋がる交通の要所でもあった。

そのため伊達、蘆名、相馬、岩城、佐竹と隣国の有力大名から度々標的にされ、度重なる戦火に見舞われている。

三春城

これらの有力大名と渡り合うために婚姻を駆使し、同盟関係を結び、歴代当主は家名存続のために力を尽くした。田村氏第23代当主・義顕は岩城常隆の娘を正室とし、その子・隆顕は伊達稙宗の娘を正室とし、その子・清顕は相馬顕胤の娘を正室とした。

 

 

こうした同盟関係を築きながら家名を保ってきた田村氏だが、隣国の蘆名氏・佐竹氏との間に同盟が結ばれる。

この強力な同盟に対抗するため清顕は、一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせ、伊達家の後ろ盾を得ながら勢力拡大を狙っていた。

三春城

愛姫輿入れの年齢は11歳、政宗13歳である。

愛姫は絵から抜け出たような美人で、大変に利発であったと云われいる。また内助の功にすぐれ、政宗初陣の時は愛姫の発案にて朝日の軍装を着け初陣を飾ったとされている。

一人娘しかいない田村家では、政宗と愛姫の次男を田村家の養子にすると約束がされており、子の誕生を待ち望んでいた。

三春城

三春城

しかしその願いは叶わず、天正14年(1586年)10月、愛姫の父・清顕は急死してしまう。

これにより田村家中は混乱し、かねてからの盟約に従い伊達家の次男誕生まで重臣達による合議制の体制を取ることになったが、清顕の正室・於北方を中心とした相馬氏寄りの家臣達が団結し、家中乗っ取りを画策した。これに伊達氏寄りの家臣達が反発したため、田村家中は二分する事になる。

 

 

・田村家激震

天正16年(1558年)4月、田村、伊達家中に激震が走る。

田村家家臣・小手森城の石川光昌が相馬義胤の誘いに乗り謀反を起こしたのである。

三春城

三春城

また同年7月には、相馬派の家臣達が於北方の甥である相馬氏16代当主・相馬義胤を三春城へ入城させようとする。しかし伊達派の家臣達が、三春城中腹まで登った義胤に対し、鉄砲や弓を撃ちかけ追い払い、義胤は命からがら船引城へと引いている。

三春城

三春城

これに呼応して政宗は小手森城の石川光昌を攻撃し落城させた。

小手森城落城を知った義胤は相馬へと撤退し、蘆名義広、佐竹義重、岩城常隆に援軍を求めた。

蘆名、佐竹はこれに応じ、連合軍が郡山方面へと出陣してきたのである。

 

 

この連合軍を伊達軍が迎え撃ち郡山合戦が開戦した。

約40日間にわたって蘆名・佐竹連合軍と伊達軍にて小競り合いが続いたが、岩城常隆の仲介によって和睦が成立。両軍撤退した。

三春城

これにより同年8月に政宗が三春城へと入り、田村仕置きを行った。

愛姫の母・於北方を船引城へと、相馬派の家臣達は小野城へと退きのかせ、後見人を政宗とし清顕の甥である孫七郎(宗顕)が田村氏第26代当主として三春城へと入った。

政宗は一カ月余り三春城へ留まっており、この時に三春城の掘や土塁、石垣などの整備されたと思われる。

田村家は事実上、伊達家の旗下となった。

三春城

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・小田原征伐後

天正18年(1590年)、関白・豊臣秀吉による小田原征伐時には、田村家にも小田原参陣の要請があったが、伊達家の旗下として自認していた宗顕は小田原に参陣しなかった。

これにより田村家は改易となり、伊達家臣・片倉景綱の元に身を寄せている。

愛姫の願いもあり、後に宗顕は片倉景綱の姉である片倉喜多の名家を継ぎ、片倉姓を名乗り現在に至っている。この片倉喜多は政宗の乳母であり、愛姫の付き人でもあった。

 

 

奥州田村氏は愛姫の遺言により、嫡男伊達忠宗が三男・宗良が岩沼3万石(現・岩手県一関市)を賜り田村宗良を名乗り、奥州田村氏を再興した。一関藩の祖となっている。

現在も三春町と一関市は姉妹都市関係を結んでいる。

三春城

三春城

秀吉が行った奥州仕置きにより、政宗は田村領を没収され会津領主・蒲生氏郷が田村領を治めることになる。三春城は会津若松城の支城として活躍する。

この蒲生時代に城下町や城の本丸石垣等の整備が進み、現在の礎が築かれたとされている。

上杉時代には守山城を支城としていたため三春城は使用ず、関ヶ原合戦後、蒲生秀行が再び会津に戻ると、三春城も重要視され更なる発展を遂げた。

三春城

三春城

寛永4年(1627年)、会津藩主・蒲生忠郷が亡くなると、伊予松山の加藤嘉明が会津藩40万石にて会津に入ることになる。三春には嘉明が三男・明利が3万石にて入城する。

三春は会津支城から支藩となり、独立した三春藩が立藩し、明利が初代藩主となっている。

 

 

加藤明利が二本松藩へ転封になると、松下長綱が二本松から入る。

三春城

三春城

松下氏が改易になると、天保2年(1645年)常陸宍戸藩主秋田俊季が、三春藩5万5千石にて入城する。

以後、秋田氏の居城として明治維新を迎えるのである。

三春城

三春城

・三春城縄張り

では三春城の縄張りを見ていこう、

独立した標高408メートルの大志田山に築かれ、田村時代の三春城は典型的な山城の縄張りであった。

山頂部に本丸、一段下がり二の丸、中腹に三の丸が配置されていたと思われる。

三春城

三春城

蒲生時代、加藤時代に本格的な石垣が築かれ近世城郭へと改修され、松下・秋田時代には御殿が建設され、二の丸と合わせ本丸とし、上段、下段と分け、南東の山麓に三の丸を新たに配置、当時の三の丸を二の丸とした。

 

 

三春城

本丸に至るまでにはいくつもの門を突破しなければたどり着くことができず、急な岩山の斜面を利用し、櫓門、石垣や塀を築き敵の侵入を拒んでいる。

現在も石垣の一部が残っており当時の情景を感じることができる。

三春城

元和元年(1615年)には武家諸法度により、新たに天守を築くことはかなわなかったが、現在の櫓跡には三階櫓が築かれ、天守に代わる櫓が築かれていた。

 

 

本丸南西隅に築かれたこの櫓は、身のすくむような断崖絶壁の上に建てられ、国内屈指の高さに築かれた天守の一つだ。現在もここに立てば三春町を一望できる。

三春城

また本丸上段に築かれた御殿は432.5㎡の広さを誇る立派な本丸御殿が築かれており、室内には柱がなく、68畳もの広大な畳敷きの広間があった。

全国最大級の御殿であったという。

本丸西側には68㎡の広さを誇る、贅沢な御風呂屋という蒸気サウナも築かれていた。

江戸時代に蒸気サウナがあった城は、名古屋城の本丸御殿に第3代将軍・徳川家光を迎えるために特別に築かれたものなどしか例がなく、江戸城本丸にも築かれていなかった。

日本の歴史上で最も高い場所に築かれた風呂屋とされている。

三春城

三春城

このように三春城は中世から近世まで残った貴重な城であり、2017年には続・100名城に選ばれている。

三春城

三春城

三春城

数々の歴史を残した三春城も戊辰戦争では無血開城をし明治維新を迎え、廃城となった。

三春城

 

城データ

城名:三春城、舞鶴城

築城者:田村義顕

主要城主:田村氏、蒲生氏、加藤氏、秋田氏

主な遺構:石垣、土塁、竪堀、虎口、曲輪跡、櫓跡

所在地:福島県田村郡三春町大町

連絡先:0247-62-3690(三春観光協会)

駐車場:無料駐車場有

アクセス:磐越東「三春駅」より徒歩約30分、三春町営バスにて「三春町役場」まで約3分 常磐自動車道「郡山東IC」から車で約10分

続・日本100名城

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みどころ

・石垣、曲輪跡

・櫓跡からの三春町の眺望

・満開の桜

・愛姫に関連した三春町のイベント

 他

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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