松井田妙義山を仰ぎ見る
関東最西端の山城
碓氷峠の山麓に築かれた中世の山城がある。
松井田城だ。
この地は信濃国と上野国の境目に位置し、北に東山道・碓氷道が走り、近江国(滋賀県)から北関東、東北まで繋がっている。
また南には中山道が走り、南関東へと繋がる交通の要衝だ。
城の北側には九十九川、南側には碓氷川が流れ、標高418mの山頂に築かれた天然の要害である。
関東では絶えず戦乱が続き、城は戦の度により強固に、より広大に改修された。
その役目を終えてから約450年間、ほぼ手つかずのまま現代に至り、良好に遺構を残している。
それでは関東平野最北端の山城・松井田城をご堪能あれ。
目次
①松井田城の歴史
②武田氏の上野侵攻
③小田原征伐
④松井田城の縄張り
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事
・松井田城の歴史
松井田城の築城時期について詳しいことは分かっておらず、12世紀後半・鎌倉時代に築かれたとも、14世紀後半に安中氏によって築かれたとも云われている。
安中氏は越後国(新潟県)・新発田よりこの地に移り、麓にある金剛寺一帯に松井田西城を築き居住したとされている。
築城当時は東山道が主要道として使用されており、城の北側に大手門、また北の高梨子地域に城下町が形成されていた。
城南側にあたる中山道が発達すると、城主の居城や城下町が南に形成されている。
信濃と上野の境目の城として重要視され、武将たちの様々な思惑により、城もその役目を変えている。
・武田氏の上野侵攻
永禄9年(1566年)ついに甲斐(山梨県)の武田信玄が2万の大軍で上野攻略へと動き出した。
松井田城にて守る安中勢は約700。
2万の大軍の前では為す術もなく、降伏。
城主・安中忠政は嫡子・忠成の命と引き換えに切腹。ここに安中氏の支配が終わり、城は落城した。
松井田城を攻め落とした武田勢は、西上州の拠点である箕輪城も攻め落とし、西上州を手中に治めている。
「箕輪城」詳しくはこちら→
箕輪城「西上州最大拠点 『上州の黄斑』と呼ばれた武将の居城」
現在の遺構は北条氏のもので、武田氏による明確な改修の記録は残されていない。
しかし上州へと繋がる重要地として改修整備をされたと考えるのが自然であろう。
天正10年(1582年)3月、天目山にて武田氏が滅びると、織田氏重臣・滝川一益が厩橋城へと入る。
一益も信濃との境目の城として重要視し、寵臣・津田政秀を松井田城へ入城させている。
しかし、そのわずか3ヶ月後の6月2日、本能寺の変にて織田信長が横死。
再び信濃・西上州は戦乱の渦に巻き込まれ、主を失った織田領を求め、北条氏、上杉氏、真田氏、徳川氏による、天正壬午の乱が勃発する。
北条氏はすぐさま5万6千の大軍で西上州へ攻め込み、6月19日には神流川の戦いにて滝川一益を破り、上州から追い出すと、真田領以外の領土を支配した。
一益を追いかけ松井田城をも攻め落とし、北条氏最西端の城として家老・大道寺政繁を城主に配置した。城は西方の最防衛線として大改修させ、現在の縄張りに至っている。
・小田原征伐
天正15年(1585年)、京では豊臣秀吉が朝廷最高位である関白に就任。
天下を掌握するため、秀吉は関白の名の下に全国に惣無事令を発し、大名達の私闘を禁じた。
しかし北条氏はこれに従わず、真田氏の名胡桃城を攻めている。
これに激怒した秀吉は北条討伐を決意。
天正18年(1590年)に東海道より22万の大軍を率いて北条氏拠点の小田原城を囲んだ。
北陸・信濃からは前田利家、上杉景勝、丹羽長重、真田昌幸、松平康国、小笠原信償ら豊臣連合軍3万5千の兵にて信濃から西上州へと進軍。
ついに松井田城は包囲された。城兵3千。攻め手は3万5千。
大道寺氏は約1ヶ月もの間、籠城し持ちこたえるも、豊臣勢の猛攻に次々と曲輪を落とされついには降伏。落城した。
その後、政繋は上州の案内役として、武蔵松山城、鉢形城、八王子城攻めにも参加し、豊臣方に貢献するも開戦責任を問われ切腹させられている。
ついには松井田城は廃城となり、今日に至っている。
・松井田城の縄張り
松井田城の改修時期は大きく2期に分けることができる。
1期目は築城当時の安中氏時代である。
安中氏時代は現在よりも小規模な城であったとされ、安中曲輪を本丸とした縄張りが形成されていた。
2期目は北条氏(大道寺氏)時代である。
上記でも記した通り、豊臣軍の脅威に晒された松井田城は信濃からの抑えとして主に西側の守りを強化した。
これが現在みられる縄張りとなり、連続空堀、連続竪堀など全国でも類を見ない技術が配置されている。
この1期、2期を大堀切で分けた、一城別郭の城として見る事もできるであろう。
では縄張りを見ていこう。
尾根伝いの東西10の曲輪を中心に構成されており、東から西に5つの曲輪が並び、次に安中副曲輪、安中曲輪、櫓台、本丸、二の丸、連続空堀との配置である。各曲輪を堀切にて独立させ、安中曲輪と本丸との間には大堀切にて別郭の造りとなっている。
東西約1km、南北1.3kmの巨大な山城となり、当時の遺構を残す全国でも貴重な文化財である。
改めて立地を見ていこう。
城の北側には九十九川、南側には碓氷川を天然の水堀とし、標高418mの山頂に本丸が築かれた。
築城当時は東山道が主要道として使用されていたため、城の北側に大手門があり、高梨子地域に城下町が形成されている。
城南側にあたる中山道が発達すると、城主の居城や城下町が南に形成されている。
南側は峻険な山が立ち上がり、北側は比較的に緩やかな傾斜となっている。
大手道からは車でも登ることができ、登城口手前に車5、6台は停められる駐車場がある。
保存会の方々により登りやすいよう整備がされている。こうして遺構が守られているのも保存会の方々の陰の努力の賜物である。感謝に尽きない。
あくまでも山城なので、登城時にはそれなりの装備は必要だ。
尾根伝いに登城道が造られ、人が1人か2人通れるくらいの道幅である。大軍での進攻は不可能だ。
この登城道に土塁や堀切、帯郭などを配置し、敵の侵入を防いでいる。
しばらく進むと道は水の手口、城郭入口と左右に分かれ、水の手口からは安中曲輪へと繋がり、城郭入口からは大手門へと繋がる。
どちらに行こうか迷う間に、頭上の曲輪から矢や鉄砲を打ち掛けられ、格好の餌食となる。
水の手口へ進むと、山城には欠かせない水の手と呼ばれる井戸ある。
1ヶ月もの間、籠城できたのもこの湧き出る水のおかげた。
厳重な石垣造りである。ここに水をため貯水庫としていた。
一度もどり、大手筋北側にある連続竪堀をみてみよう。
大手門に繋がる尾根を横堀、竪堀で分断し敵の侵入を防ぐ。
松井田城のみどころの一つである竪堀を連続させた、連続竪堀。敵の侵入路を断ち、多くの敵を殲滅させる技術である。
横堀と組み合わせれば鉄壁を誇る。
ここを突破しても武者だまりといわれる曲輪を配置し、さらに敵の侵入を防ぐ。
この曲輪はその名のごとくに多くの兵を収容しておける曲輪だ。
戻り大手門を見てみよう。
門から曲輪までの高さ10m以上はあろうか。
この門を避け、曲輪までよじ登るのは不可能だ。
大手門は城の正面に設けられた門で、追手門とも呼ばれる。
その所以は、籠城の際に別方面から敵を門に追い詰めて戦うように造られているからである。
松井田城の場合には水の手口から大手門に敵を追い込む事ができ、挟撃できる縄張りとなっている。
当時の物であろう巨石が残されている。
強固な門であったに違いない。
大手門を抜けると主要部の曲輪へと出る。
本丸、二の丸の間にある馬出しだ。
本丸を守る大切な防御施設となる。
馬出を西に進むと、二の丸へと到る。
城内で二番目に重要な曲輪となり、南北約80m、東西約60mの広さを持つ。
西側の周囲を土塁で囲み、西端には櫓があったとされる。西側の守りを強く固めている。
二の丸の先は急峻な落差がある。約30mはあろうか。
その先には6本の空堀が畝状に掘られている。松井田城の特色の一つである連続空堀だ。
が、今、記事を書きながら愕然としている。
まさかの写真データが残っていなかった。最悪である。
発狂したい気分だが、今一度、登城するきっかけができたと、必死に自分を励ましている。
残念だが連続空堀の写真は後日、掲載したいと思うので、期待をしてていただきたい。
主郭部に戻り、本丸へと向かう。
本丸は南北約80m、東西約50mの長方形型をしており、北条氏(大道寺氏)時代に造られたといわれている。
現在、虚空蔵堂が建っている東北端には櫓が建っていた。東南端にも櫓があったと考えられ、堅固な虎口跡も見られる。
櫓台跡を抜けると、安中曲輪へと出る。
安中氏が築城した主郭部である。安中曲輪の一帯が市指定の史跡となっており、「大道寺駿河守政繫居城記念碑」が建つ。
曲輪からは本丸へ繋がる枡形虎口が見下ろせ、虎口によって詰まった敵を一網打尽にできる配置だ。
安中氏時代の二の丸にあたる、東西約55m、南北約20mの安中副郭を配置。
さらに東には尾根伝いに5、6の曲輪が配置されている。
大国である武田氏、豊臣氏と、数万の大軍により落城をしているが、名立たる武将相手に1カ月もの間、籠城し耐えて見せたその縄張りは名城といえよう。
遺構も良好に残り、当時の城景を今も伝えている。
城データ
城名:松井田城、諏訪城、小屋城、霞ヶ城、堅田城
築城者:安中忠政、大道寺政繫
主要城主:安中氏、武田氏、織田氏、北条氏
主な遺構:連続空堀、連続竪堀、土塁、土橋、空堀、竪堀、枡形虎口、井戸跡
所在地:群馬県安中市松井田町高梨子
連絡先:027-382-7622(安中市文化財課)
アクセス:上越自動車道「松井田妙義IC」から車で約5分
JR「松井田駅」から徒歩で約30分
無料駐車場有
指定文化財:安中郭跡(市指定)
みどころ
・連続空堀、連続竪堀
・豊臣連合軍の猛攻を約1か月間耐えた縄張り
・名城と呼ぶにふさわしい山城
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