会津120万石・上杉景勝
幻の居城
会津120万石・上杉景勝に幻の居城が存在したのは御存じであろうか。
上杉家重臣・直江兼続が縄張りをし、知恵の限りを結集した神指城。
会津盆地の中央に位置し、120万石に相応しき居城となるはずであった。
しかし景勝が神指城に入る事はなかった。
それでは幻と化した神指城を御堪能あれ。
目次
①上杉家第17第当主・上杉景勝
②神指城築城
③関ヶ原の合戦
④幻の城
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
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・上杉家第17第当主・上杉景勝
上杉景勝は弘治元年(1556年)軍神・上杉謙信の姉である仙桃院の嫡男として生まれる。
謙信には実子はなく、景勝と、越相同盟時に人質として送られてきた北条景虎を養子とし、後継者を定めないまま脳卒中で倒れ、この世を去っている。
謙信死後、景勝と景虎の跡目争い(御館の乱)が勃発し、越後を二分した戦いが行われた。周辺大名を味方につけた景勝が勝利、越後91万石を継いだ。
そんな景勝に転機が訪れる。
時の関白・豊臣秀吉のおぼえめでたく文禄3年(1595年)には従三位権中納言の官位を与えられ、豊臣政権五大老に任じられる。慶長3年(1598年)には関東にいる徳川家康、奥羽の伊達政宗の抑えとして会津、仙道、米沢、伊達、庄内、越後、佐渡などの領地を与えられ120万石に加増。上杉家最高石高を得ることとなる。
移封となった会津は会津盆地東側に位置する会津若松城を中心に城下町が広がっており、その町割には限界が見えていた。
そこで会津若松城より北西4kmに位置する神指の地に目を付け、120万石に相応しい壮大な城の築城を開始するのである。
・神指城築城
慶長5年(1600年)2月、越後、仙道、米沢、会津の人夫12万人を動員し神指城の築城を開始。
縄張りは重臣・直江兼続が担当し、「回」字状の輪郭式平城で、本丸東西200m、南北235m、二の丸は東西590m、南北670m、本丸、二の丸ともに幅約50mの水堀が巡る。城の総面積は55ha、東京ドーム約12個分、会津若松城の2倍の広さを誇る広大な城であった。
城のすぐ西側には阿賀川が流れ、旧領・越中の日本海まで繋がっている。船運により物資の補給も容易にできる立地である。
6月には本丸に石垣が積まれ、土橋、土塁、堀の形が完成した。
・関ヶ原の合戦
慶長3年(1598年)5月、関白・豊臣秀吉は病に伏せるようになり、死を悟った秀吉は、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元らの五大老及び五奉行を呼び、遺言状を出し、豊臣政権への臣従を誓う起請文を提出させる。後継者の秀吉の嫡男・秀頼はわずか5歳。天下を束ねられるわけなく、側近たちの力が不可欠だったのだ。8月にも五大老に同じ遺言状を出し再度、臣従を誓わせ同月18日に逝去。
慶長5年(1600年)7月事態は起こる。
打倒・豊臣政権を目論む徳川家康が、神指城築城に難癖をつけ「景勝に異心あり」と謀反の疑いをかけ、上洛し釈明を要求してきたのである。家康からの弾劾状を受け取った景勝はこれに真っ向から迎え撃つ。
交渉役の直江兼続は各糾弾をことごとく論破、家康の要求をはねつけた上に挑戦状をしたためた。これがかの有名な「直江状」である。これを受け取った家康は激怒。各諸将に出陣の命を出し、上杉討伐の兵を起すのである。
家康を迎え撃つため神指城築城は中止。
家康軍が下野小山(栃木県小山市)に入ったところで、近江(滋賀県)の石田三成が挙兵し、天下分け目の関ヶ原合戦が幕を開けるのである。
・幻の城
神指城は本丸、二の丸だけではなく武家屋敷を含む三の丸、城下町の構想など壮大な都市計画であった事がわかっており、軍事目的の城ではなく、会津120万石に相応しい居城の計画であった。
関ヶ原の合戦は家康方・東軍の大勝利で終わり、西軍に加担した上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減俸。
後に会津に入った加藤嘉明は神指城の石垣を会津若松城の改修に使用した。
神指城は廃城となり、景勝・夢幻の居城として土塁の一部と堀、石垣の基礎石を残すのみである。二の丸・東北隅土塁の上には「高瀬の大木」と呼ばれる国指定文化財に登録された大ケヤキがあり、樹齢は500年を超えるという。神指城築城前からあるケヤキとされていて、土塁の大木は伐採されるのが常であるが、築城中止を知っていたのか、はたまた天守等に使おうとされていたのか、理由は不明であるがこの大木は現在も生きている。
その堂々とした姿からは、景勝・兼続の壮大な夢を感じることができる。
また当地は新選組殉難の地としても知られ、
慶応4年(1868年)旧幕府軍 対 新政府軍の会津戦争で会津侵入口の母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい)で敗走した新選組はこの地にて戦いを起こす。
庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方歳三方に対し、山口次郎こと斎藤一は会津藩主・松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と会津に残留し徹底抗戦を決意する。山口と20名ばかりの隊士はここ神指城・二の丸土塁付近に宿陣していたが、新政府軍の襲撃を受け惨敗した。乱戦の中、数名の隊士が脱出しており、この地で新選組を率いた山口は会津藩が降伏開城した後、藩士とともに陸奥国(青森県)斗南藩に移り、大正の世まで生き抜いている。
城データ
城名:神指城
築城者:上杉景勝
主要城主:上杉氏
主な遺構:土塁、堀、基礎石
所在地:福島県会津若松市神指城高瀬
連絡先:0238-21-6111(米沢市教育委員会教育管理部文化課)
アクセス:JR米坂線「西米沢駅」徒歩約40分
東北中央自動車道「米沢中央IC」より車で約20分
みどころ
・土塁、基礎石
・広大な縄張り
・上杉景勝の壮大な夢
・新選組殉難の地・如来堂
他
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