小諸城址・懐古園
日本唯一の「穴城」と呼ばれた城
本日は穴城と呼ばれた小諸城を紹介したい。
天文12年(1543年)、武田信玄は大井氏の鍋蓋城・女坂城を占拠。
この鍋蓋城・女坂城を拡張整備させたのが始まりだ。
縄張りは信玄の軍師・山本勘助によるもので、信濃攻略重要拠点として築かれたこの城は、兵を収容した時に周囲から見えないよう城下町より低い位置に築かれた。
全国でも唯一「穴城」と呼ばれている所以だ。
高さ7メートルはあろう天守台は見事で、石垣には美しい苔がつき、約400年前の情景を感じることができる。
それでは穴城・小諸城を御堪能あれ。
目次
①小諸城の縄張り
②豊臣時代
③関ヶ原の合戦とその後
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・小諸城の縄張り
山本勘助・生涯の傑作と謳われる小諸城は、城の西側には千曲川を天然の水堀とし、峻険な谷を利用し、南に4重、北に5重もの空堀を配置。絶壁を利用した、深さ20メートルあろう空堀には驚愕させられる。
河岸段丘に築城され、千曲川からみた城は山城と見え、城下町からは平城に見える。
まさに天然の要害である。
武田家築城の名手である、山本勘助、馬場信春により拡張整備がなされ、江戸期になっても縄張りに変化はなかった。
信濃、上野攻略にはかかせない政治的、軍事的にも重要拠点とされ、信玄の甥である武田信豊が初代城主となっている。
・豊臣時代
武田家滅亡後は織田家・滝川一益、徳川家・松平康国と城主が入れ替わり、徳川家関東移封により、豊臣家・仙石久秀が5万石にて入城する。
久秀により、土塁を石垣とし、三重天守、強固な櫓門である大手門、三の門が設けられ、現在の近世城郭へと発展させた。
三重天守には桐文鐙瓦、鬼瓦、金箔瓦、金箔鯱瓦などが使用され、豪勢な天守が建っていたとされる。寛永3年(1626年)に落雷により焼失し、現在では野面積みで積まれた天守台だけが良好に残っている。
大手門、三の門は国の重要文化財となっており、堂々たる櫓門を堪能できる。
日本100名城にも選定されている。
・関ヶ原の合戦とその後
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の合戦、
西軍に属した上田城・真田昌幸を討つべく、後の徳川2代将軍・徳川秀忠は徳川本隊3万8千を率い、ここ小諸城に本陣をおいた。
上田城まで約20㎞、猛攻をしかけるも上田城は落ちず10日間も足止めされ、遂には天下分け目の合戦に間に合わなかった。
その後、明治4年(1872年)の廃藩置県で廃城となった小諸城は、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻され、「懐古神社」を祀り、城内を「懐古園」と名づけられた。
現在の「三の門」には徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による扁額が掲げられている。
大正15年(1926年)には、明治神宮の森や日比谷公園も設計した本多静六により、近代的な公園に生まれ変わり、日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選にも指定され、四季折々の情景を楽しむ事ができる。
城データ
城名:小諸城、酔月城、白舞城、穴城、鍋蓋城
築城者:大井光忠・武田信玄・仙石秀久
主要城主:大井氏、武田氏、仙石氏、徳川氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏、牧野氏
主な遺構:空堀、虎口、石垣、天守台、大手門、三の門
所在地:長野県小諸市丁311
連絡先:0267-22-0296
アクセス:小海線・しなの鉄道小諸駅下車、徒歩3分
上信越自動車道小諸より約6分
駐車場有
日本100名城
指定文化財:国指定、重要文化財2件
みどころ
・絶壁を利用した空堀
・苔むした本丸石垣
・武田氏軍師・山本勘助の「穴城」と呼ばれる縄張り
・山本勘助が愛用した鏡石
・国の重要文化財・大手門、三の門
・三の門・徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による扁額
他
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