山城と近世城郭の融合
妖艶・笠間城
本日は茨城県笠間市にある笠間城を紹介したい。
笠間城は元久3年(1205年)、宇都宮氏の一族、笠間時朝によって築城された。
標高182mの佐白山に築かれた山城で、以後、天正18年(1590年)まで笠間氏18代の居城となった。2017年には続日本100名城にも選定され、現在も天守台、物見櫓、石垣、土塁や堀切等が残り、その当時の情景を感じることができる。
それでは妖艶・笠間城を御堪能あれ。
目次
①笠間城の歴史
②小田原征伐と近世城郭への変貌
③笠間城のその後
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・笠間城の歴史
その昔、佐白山には神の使いとされる白い雉、白い鹿、白い狐の、三匹の白い動物いたそうだ。山を守る白い動物が三匹すんでいる山、“三白山”と呼ぶようになった。
山頂には「三白寺」が築かれ、平安時代から鎌倉時代には僧坊百余を数えるほど栄えた。
しかし同じ宗派の「徳憎寺」との抗争が起きる。
劣勢になった、三白寺の僧が時の有力者・宇都宮頼綱に救援を求め、甥である宇都宮時頼を笠間に派遣した。
時頼は徳憎寺を始め三白寺までをも制圧し、笠間城を築城、笠間氏を名乗るのである。
・小田原征伐と近世城郭への変貌
笠間氏は代々この地を収めたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐が起こる。
城主・笠間幹綱(綱家)は主家である宇都宮氏の命に従わず、小田原参陣を拒否した。
これにより幹綱は追放され、約380年続いた笠間氏18代は潰えたのである。
笠間氏に代わり、宇都宮氏の家臣・玉入高宗が3万石にて入城するが、宇都宮氏は後継者争いにより改易とされる。
宇都宮氏に代わり入城したのが、会津から来た蒲生秀行だ。
宇都宮19万石にて宇都宮城へ入る。
笠間城へは蒲生氏の家臣・蒲生郷成が3万石にて入城することとなる。
そして郷成により笠間城は大改修され、近世城郭へと生まれ変わるのである。
蒲生氏は近江(現在の滋賀県)の出生で、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城など数多くの城の石垣を手掛けた「穴太衆」を抱えており、笠間城はこの穴太衆により見事な石垣が造られた。
北関東でも数少ない穴太衆による石垣の一つである。
現在も笠間市は石の産地として有名で、稲田地区から採掘される「稲田石」は約6000年前、地下深くマグマが固まりできた花崗岩で、その際立った白さから「白い貴婦人」と呼ばれている。日本の近代化により、迎賓館や日本銀行本店を始め、国会議事堂、東京駅、最高裁判所などにも使用されている日本を代表する石だ。
天守曲輪裏側の石倉では多くの巨石が転がっており、石を切り出した矢穴の跡を確認することができる。
こうして山城と近世城郭を融合された近世笠間城が完成するのである。
この蒲生時代の笠間城が現代に残り、天守台、物見櫓、石垣、土塁や堀切等が残り、その当時の情景を今も感じることができる。
本丸にあった八幡櫓は笠間城近くの真浄寺に移築されて、現在も良好に保存されている。
・笠間城のその後
その後、松井松平氏、小笠原氏、戸田松平氏、永井氏、浅野氏、井上氏、本庄氏、と目まぐるしく城代が代わり、牧野貞道入城後、廃藩置県まで牧野氏8代の居城となった。
余談であるが、笠間城は心霊スポットとしても有名だ。
多くの戦が行われたためか、霊の目撃情報が絶えない。
極めつけは、映画「リング」の元となった井戸があるらしい。
あまり整備が行き届いてないためか、異様な妖艶さを漂わせている。
ぜひとも実際にその妖艶さを実際に感じてみてはいかがであろうか。
筆者もこの笠間城で転んで愛用のカメラの一部が壊れた。
だが笠間城との良い思い出として現在もそのカメラを使用している。
城データ
城名:笠間城、桂城
築城者:笠間時朝、蒲生郷成
主要城主:笠間氏、宇都宮氏、蒲生氏、松井松平氏、小笠原氏、戸田松平氏、永井氏、浅野氏、井上氏、本庄氏
主な遺構:石垣、土塁、堀、天守台、八幡櫓、井戸、枡形虎口
所在地:茨城県笠間市笠間3613
駐車場:無料駐車場有
連絡先:0296-77-1101(生涯学習課 文化振興室)
アクセス:友部ICより約7km車で約15分 JR水戸線 笠間駅より徒歩約25分
指定文化財:国指定
続・日本100名城
みどころ
・穴太衆が積んだ見事な石垣
・石倉にある巨石の矢穴跡
・八幡櫓の土塁
・移築された八幡櫓
・抜群の雰囲気
他
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