築城600年
那須氏代々の居城
時は源平時代、平家討伐に兵を挙げた源義経は、平家を讃岐国屋島へと追いつめる。
義経は嵐の中、たった5艘・150騎で船に乗り込み屋島へと向かった。暴風雨の中、4日かかる航路をなんと4時間でほどで到着。
虚をつかれた平家は慌てて海へと逃亡した。
やがて源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて矢戦を仕掛けてきた。激しい戦闘となり義経軍も郎党・佐藤継信が討ち死にするなど痛手を被る。
夕刻になり休戦状態となると、突如、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先に扇がくくりつけてある。平家方はこの扇を射てみよと挑発してきたのである。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れ、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、矢を放った。
その矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空へと舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
「平家物語」の名場面、『扇の的』である。
今回紹介する那須烏山城は、扇の的でもおなじみの主人公・那須与一が子孫・那須資重が築き、以後172年、那須氏の居城として活躍する。
築城から600年経ついまでもその面影を今に伝えている。
それでは那須氏が居城・那須烏山城を御堪能あれ。
目次
①那須烏山城の歴史
②縄張りと遺構
③小田原討伐とその後
④烏山城唯一の建造物
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事
・那須烏山城の歴史
烏山城は応永25年(1418年)、那須資重が築き、稲積城からこの地に移ったとされている。築城年代には異説もあり詳しいことはいまだ分かっていない。
標高206mの八高山と呼ばれる喜連川丘陵の一支脈である、独立丘陵頂部を中心として築かれた、連郭式の山城だ。この山はまるで牛が臥している形に似ていることから、別名・臥牛城とも呼ばれている。
城の東側には大きく蛇行した那珂川、西には江川、南には那珂川、江川と荒川の3河川が合流する氾濫原が広がり、北には丘陵地帯と、天然の要害だ。
現在は明治初期の遺構が良好に残っている。
東西約350m、南北約600mの範囲に、五城三郭(古本丸・本丸・中城・西城・北城・常盤曲輪・若狭曲輪・大野曲輪)と呼ばれる曲輪が築かれ、曲輪を土塁、空堀、堀切で仕切り堅固な城塞となしている。
駐車場に車を停めると、案内板にて城の縄張りを確認できる。
烏山との名称は日本神話に登場する八咫烏(やたがらす)に由来すると云う。
日本サッカー協会のエンブレムで良く知られた三本足の鳥(八咫烏)だが、神武東征の道案内役や、和歌山県の熊野本宮大社、山形県の出羽三山、羽黒神社でも神使とされており厚い信仰がされている。
築城に際し「金の御幣をくわえた烏が飛んできて、八高山に御幣を落とした。熊野権現の神のお使い八咫烏である鳥が案内した場所に築城し、烏山城と称した」と云う。
・縄張りと遺構
毘沙門山城山遊歩道と書かれた案内板に従い、ひたすら階段を登ると城郭展望台へと出る。
この城郭展望台には3.8mのブロンズ製の毘沙門天像が建立されている。
烏山城築城600年を記念して製作されたもので、嘉永元年(1848年)城主となった大久保忠美が城下繁栄祈願のため、日光より勧請した。
以後多くの人に信仰され、当時の毘沙門天像は1990年、指定有形文化財に指定され、烏山市の一乗院に安置されているとの事だ。
民を想う忠美公の心に関心しつつ、展望台から烏山市街を眺める。
丘陵地帯と那珂川、烏山市街を確認することができる。
当時この場所にも見張り台が置かれていたことであろう。
展望台を尾根伝いに進むと城内の太鼓丸(狼煙台)、常盤橋(車橋)へと出ることができる。
城の正面を守る曲輪として重要な役割をしていた、常盤門、常盤曲輪には土塀や堅固な櫓門が築かれていたそうだ。現在も塀の土台となった石列を確認することができる。
常盤橋(車橋)も車輪がついており戦闘時には引く事ができる引橋となっており、容易には侵入できない。
常盤曲輪を抜けると塩倉に抜ける吹貫門跡に出る。
横矢が掛かるよう側面を石垣で守り、敵からの攻撃に備えている。
本丸入口は正門にて守られていた。当時の石垣や礎石を確認することができる。
現在、本丸となっているこの場所は、室町時代、明応年間(1492~1501年)に那須資実が行った城郭拡張の際に築かれ、古本丸から当時二の丸であったここに主郭を移したとされている。
本丸入口には石垣を利用した内枡形の虎口が設けられ、北側には古本丸へつながる土橋の遺構が発見されている。
本丸を北に向かうと古本丸に出る。
享禄年間(1528~1531年)の火災により建物が焼失され、その後再建されずに本丸(二の丸)へ主郭が移ったとされている。
本丸・古本丸の間は深さ約5m、幅約5mの空堀で仕切られ土橋により敵の侵入を防いでいる。
古本丸北側には搦め手にあたる桜門があり、礎石の遺構を確認することができる。
冒頭にも記したが、古本丸を中心に五城三郭(古本丸・本丸・中城・西城・北城・常盤曲輪・若狭曲輪・大野曲輪)と呼ばれる曲輪が築かれ、曲輪を土塁、空堀、堀切で仕切り堅固な城塞となしている。一度も落城したことのない難攻不落の城である。
・小田原征伐とその後
那須氏は室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられた名家だ。
しかし15世紀前半に、上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退したとされる。
その後、上那須家は室町幕府を、下那須家は鎌倉公方・古河公方を頼って勢力争いを繰り返す。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一する。その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争が続いている。
天正18年(1590年)、那須氏第21第当主・那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収。しかし家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に下野福原に5,000石を与えられ、那須家改易は免れた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、下野那須藩を立藩。1万4,000石の大名となった。
3代藩主・那須資祗の時、2万石に加増され念願の烏山城へ復帰を果たす。
しかしその養子である那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後1,000石の交代寄合として資穀の代にて明治維新を迎えた。
明治に入り養子縁組で関係があった、津軽氏を頼り弘前へ移住している。
・烏山城唯一の建造物
豊臣秀吉の小田原征伐以後は、織田氏、成田氏、堀氏、板倉氏、那須氏、永井氏、稲垣氏と頻繁に城主交代がなされ、寛永17年(1640年)堀親昌の時代に追手門、神長門が造られた。万治2年(1659年)には城の東山麓に新たな居館(三の丸)が築かれ、藩政機能は三の丸に移されている。
享保10年(1725年)譜代大名・大久保常春が近江国(現・滋賀県)より移封され、以後約140年間、大久保氏の居城となり明治維新を迎え、烏山城は廃城となった。
市内には歴代藩主の遺構が残され、江戸時代末期頃に建造されたとされる、神長門(烏山城裏門)が烏山城唯一の建造物として移築されている。
那須氏菩提寺である天性寺には那須家6代の墓が祀られ、いまも烏山を見守っている。
城データ
城名:烏山城、臥牛城
築城者:那須資重
主要城主:那須氏、織田氏、成田氏、松下氏、堀氏、板倉氏、那須氏、永井氏、稲垣氏、大久保氏
主な遺構:石垣、土塁、堀、基礎石、虎口、神長門
所在地:栃木県那須烏山市城山
連絡先:0287-88-6224(市教育委員会事務局文化振興課)
駐車場:無料駐車場有
アクセス:JR「烏山」下車、徒歩で約15分
東北自動車道 矢板I.Cから車で約40分
みどころ
・土塁、空堀
・石垣、基礎石
・現存・神長門
他
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