関東のマチュピチュ
名城・太田金山城
上野国に関東では珍しい石垣造りの城がある。
関東七名城の一つに数えられ、越後の上杉謙信、甲斐の武田勝頼をも退けた堅城・金山城だ。その石垣の美しさから関東のマチュピチュと称され、素晴らしい景観を堪能する事ができる。
それでは、多くの戦乱を乗り越えた名城・太田金山城を御堪能あれ。
目次
①太田金山城の歴史
②横瀬氏金山城城主に
③河越の夜戦
④関東管領・上杉謙信
⑤由良国繁幽閉
⑥小田原征伐と関ヶ原の合戦
⑦金山城のその後
⑧城データ(所在地はこちら)
⑨みどころ
⑩おすすめ記事
・太田金山城の歴史
金山城は鎌倉幕府を滅ぼした、新田義貞の末裔である岩松家純が文永元年(1469年)に築城したのが始まりだ。
関東平野を一望できる標高239mの上野国・金山(群馬県太田市)に築城され、頂上の実城を中心に北城・西城・八王子山ノ砦と4つの区間に分かれており、総面積300haにもおよぶ広大な山城だ。
関東七名城の一つに数えられる。
北に渡良瀬川、南には利根川が走り、上野国・下野国・武蔵国(群馬県・栃木県・埼玉県)を結ぶ交通の要所にあり、軍事的・政略的にも重要視された。
築城当時の関東は古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏が対立しており戦乱の中にあった。
金山城周辺を治めていたのは、岩松郷を名字とする新田氏の一族・岩松氏で、南北朝の動乱を生き抜き、鎌倉府のもと大きな地位を占める名家であった。
しかし幾たびかの対立により、岩松氏も礼部家と京兆家に二分し、同族での争いを続けていた。
この両家を統一したのが築城者・岩松家純で、家臣・横瀬国繁に縄張りを命じ、金山城を僅か70日で築城させたと云われている。
家純は更なる岩松家の統一のために、家臣である横瀬国繁を「代官」とし、家臣一同で上天下界の神々や八幡台菩薩の前で「御神水の誓い」を行っており、古河公方・足利氏に味方することを誓っている。この誓いで岩松家の体制統一を図ったとされている。
だが嫡子である岩松明純、孫の尚純は、関東管領・上杉顕定の誘いに乗り、金山城への登城を拒んでいた。
岩松家の統一を第一としていた家純は激怒し、明純と尚純は勘当、廃嫡された。
そして武蔵国・鉢形城に居る上杉顕定の元へ身を寄せたのである。
この出来事により代官・横瀬国繁の力が強まり、岩松家を左右する存在となっていく。
後継者をなくし、存続を危ぶまれた岩松家だが、古河公方の許しを得て、孫の尚純を家純の「名代」として金山城への帰城を許された。明応3年(1494年)家純が死去し、尚純が岩松家を継いでいる。
家督を継いだものの、既に横瀬氏が政の実権を握っており、次第に横瀬氏との対立を深めていく。
明応4年(1495年)尚純はついに一族を従え、横瀬氏打倒の兵を挙げる。
しかし横瀬氏は堅城・金山城に立て籠もり、戦いは長期化することとなる。
金山城を取られた尚純は不利となり、この間に横瀬国繁は古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏と連携を取り、尚純は強制的に隠居させられてしまう。岩松家は尚純が嫡子・昌純が家督を継ぐこととなる。
・横瀬氏金山城城主に
昌純も若年にて、横瀬氏の傀儡でしかなかった。
昌純も主導権を取り戻すべく、横瀬泰繁と対立することとなるが、享禄2年(1529年)軍勢を起こす前に計画が露見し、泰繁の軍勢によって昌純は討たれてしまった。
その後、氏純が家督を継ぐも、ついには泰繁の専横を止める事は出来ず、天文17年(1548年)頃に自ら命を絶ったとされている。
これにより横瀬泰繁の金山城城主としての地位は固まり、下剋上を果たしたのである。
横瀬氏は、後に由緒ある新田四天王の由良氏へと改姓し、名実共に上野国の国人として関東戦国史において重要な存在となっていく。
・河越の夜戦
横瀬氏が金山城城主となったころ、関東の勢力図は大きく変わり始めていた。
小田原の後北条氏が台頭し、既に江戸城、河越城は北条氏に落とされ、関東を平定する勢いで所領を拡大していた。
これに危機感を覚えた扇谷上杉氏・上杉朝定が敵対関係にあった関東管領・上杉憲政、古河公方・足利晴氏に共闘を呼びかけ、ここに関東諸将が結託し反北条軍が誕生する。
横瀬氏も参戦し、実に8万もの大軍で河越城を包囲した。
一方、河越城方は城主・北条綱成率いる兵3千。
数の上では全く戦にならなかった。
北条方は河越城に籠城するしかなく、小田原の北条氏康の援軍を待った。しかし、後詰めの氏康軍も導引できる兵は僅かに8千。
8万対8千では多勢に無勢、勝負にならない。
連合軍もこのまま包囲していれば、すぐに降伏するだろうとたかをくくり、総攻撃を仕掛けないまま半年の時が経っていた。氏康も連合軍に小競り合いもしかけるもすぐに撤退。
関東諸将は北条軍の弱さに侮り、あざけ笑ったと云う。
氏康はついに観念し、関東諸将に書状を送った。
「河越の城兵は飢えに苦しんでいる。彼らを救ってくれるなら、城と領地を献上する。」と降伏を申し出たのだ。
そして天文15年(1546年)4月20日、子の刻(0時~2時)。
氏康は8千の軍に鎧兜を脱がせ身軽にし、物音を立てぬよう連合軍に近づいた。
そして突如して、奇襲攻撃を仕掛けたのである。
これに呼応し、河越城の北条綱成軍3千も城から討って出た。
連合軍8万は大混乱に陥り、扇谷上杉・上杉朝定は討死。
関東管領・上杉憲政は敗走。
古河公方・足利晴氏も敗走し、連合軍は1万5千以上の死傷者を出し四散する。
北条軍の大勝利であった。
この「河越夜戦」と呼ばれた戦は、「桶狭間の合戦」・「厳島の合戦」と並び、日本三大奇襲の一つに数えられている。
この河越夜戦により関東の勢力図は大きく変わり、扇谷上杉氏は滅亡。
古河公方・足利晴氏は幽閉。関東管領・上杉憲政は衰退し、越後の上杉謙信の元に落ち延びた。
北条氏は大きく領土を拡大し、関東の覇者となったのである。
金山城の横瀬氏も抵抗し戦ったが、ついには降伏。
北条氏の麾下に入った。
・関東管領・上杉謙信
永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎の元に身を寄せていた関東管領・上杉憲政は、嫡男を北条氏康に処刑され、ついには後継を長尾景虎(上杉謙信)に譲ることを決意。
関東管領・上杉景虎が誕生することとなる。
関東管領職を引き継いだ景虎は関東諸将を次々と従え、11万もの大軍にて小田原城を包囲する。
鶴岡八幡宮にて正式に関東管領職と上杉家を相続し、上杉政虎と名乗るのである。
金山城の横瀬成繁も新田衆の筆頭として名を連ねて、上杉方に参陣した。
しかし長陣の為、上杉軍の士気は落ち、無断で陣を払う将も出てきた。
越後を狙う武田信玄も動き出したため、小田原城包囲を解き謙信は越後へ戻っていった。
謙信が関東から去ると、またもや氏康が勢力を巻き返し、関東諸将を従えていく。
成繁も北条方に下り、越後方を見限っている。
これに激怒した謙信は金山城を攻撃するも、堅城・金山城はこれを退けている。
永禄8年(1565年)成繁は、室町幕府・足利義輝より御供衆に列され刑部大輔の任官を受けた。
これを機に新田四天王の由良氏へと改姓し、由良成繁と名乗る。成繁は大国に囲まれながらも対立・和平を繰り返し、戦国大名としての地位を着々と固めていった。
元亀元年(1570年)には上杉謙信と北条氏康にて越相同盟を結ぶことになる。
その交渉期間は約2年半におよび、この両家の繋ぎ役に抜擢されたのが由良成繁である。
由良手筋と呼ばれた数々の人脈を繋ぎ、越相同盟を締結させた。
この交渉の場で度々、金山城が使用されている。
しかし越相同盟も北条氏康が死去すると、あっさりと破綻となり、北条氏は武田氏と甲相同盟を結ぶこととなる。これにより、上野国は北条氏と武田氏に狙われ、北条、武田、上杉の三巴の戦いへと巻き込まれていくのである。
成繁は情勢変化を読み、上杉方につき、北条方につき、と同盟を繰り返しながら領土拡大を成し遂げた。
天正元年(1573年)には館林城を攻略し、弱体化した桐生城の桐生親綱を敗走させ攻略に成功、東上野を支配している。
天正2年(1574年)関東管領・上杉謙信は本格的な上野攻略に乗り出した。
3月10日には赤堀城、膳城、山上城、女淵城と由良氏方の城を次々と落城させ、遂に金山城へと迫ってきたのである。
由良成繁とその子・国繁は、金山城に籠城し、北条氏の救援を待った。
3月26日、謙信は金山城から死角となる藤阿久に陣を敷いた。
そして4月1日、ついに金山城への総攻撃の命が下ったのである。
金山城、絶体絶命の危機である。
攻防は1カ月間も続いた。
しかし、堅城・金山城は落ちなかったのである。遂に謙信は撤退。軍神・上杉謙信を退けている。
北条家当主・北条氏政は、この由良氏の攻防戦の功を称え「輝虎(謙信)早々敗北、誠に武勇の至り、御名誉に候」と、成繁に秘蔵の刀・兼光を贈ったとされている。
その後、成繁は嫡男・国繁に金山城に譲り、桐生城へ隠居。
天正6年(1578年)桐生城にて72年の生涯を閉じた。
天正8年(1580年)には、甲斐の武田勝頼に攻められるも、由良国繁は勇敢にも軍勢を率いて武田軍に挑む。しかし100人程の負傷者を出し撤退。
金山城に籠城し、遂には武田軍を退けている。
・由良国繁幽閉
天正12年(1584年)には大事件が勃発した。
北条氏直の招きで、国繁と、長尾家を継いだ国繁の実弟・館林城主の長尾顕長が、小田原城へ登城すると、身柄を拘束されてしまったのである。
国繁と顕長を人質にとった北条氏は、下野国進出を理由に、金山城・館林城の借用を迫った。
事実上の本領没収と解釈した由良氏は、国繁の実母・妙印尼(赤井輝子)が中心となり金山城での籠城を決意する。
遂には北条氏邦、氏照軍が執拗に金山城へ攻撃を仕掛けたが、これを撃退。世に堅城さを見せつけている。
膠着状態が続いたが、国繁と顕長の帰還と、金山城・館林城の譲渡を条件に和睦。金山城は北条氏へと引き渡され、国繁は桐生城へと帰還した。
代々の居城を奪われた国繁は、金山城奪還を試み、北条氏に軍勢を向けるも、これを撃退されてしまう。命までは助けられたものの、国繁とその妻は小田原城在府を命じられ、またもや身柄を拘束されてしまった。
天正15年(1587年)には北条家家臣・清水正次が金山城城主に任じられ、石垣の整備や二重土塁、堀切などの北条流築城普請が行われ、現在の縄張りへと姿を変えた。
・小田原征伐と関ヶ原の合戦
北条氏の統治も長くは続かず、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏は滅亡。
金山城は前田利家に接収され、廃城となった。
由良国繁は小田原討伐時、小田原城に拘束の身であり、籠城を余儀なくされたが、由良氏は母である妙印尼の機転にて早々に秀吉に降伏。国繁が嫡子・貞繁を立てて、前田利家に桐生城を明け渡した。これが功し、後に常陸国牛久に5400石の所領を安堵される。
関ヶ原の合戦時は江戸守備を任され、下総国相馬郡1600石を加増され、計7000石を知行した。
慶長16年(1611年)国繁は61年の生涯を遂げ、貞繁がその跡を継ぐ。
後に由良氏は新田氏子孫として高家に列せられ、明治維新以降まで長く家名を保っている。
・金山城のその後
破城となった金山城だが、寛永6年(1629年)頃、館林藩主・榊原忠次が徳川三代将軍・家光に松茸を献上したことがきっかけで、幕府へ献上松茸として金山の松茸が毎年献上された。
後に金山は「御林」と称され、幕府の直轄領として管理され、結果、良好に遺構を保存できた。
平成7年(1995年)には『金山城跡環境整備事業』がスター トし、大規模な発掘調査を基に、大手虎口や石敷きの通路、土塁なども復元整備され、当時の情景を現代に伝えている。特に大手虎口の石垣は必見で、高さ3mは超す石垣だ。穴太積みとはまた違う積まれ方をされており、関東では珍しい石垣技術を堪能することができる。その姿から関東のマチュピチュとも呼ばれている。
山城には珍しい「日ノ池」・「月ノ池」と呼ばれる2つの溜池があり、現在も枯れることなく水を湛えている。この池からは「土馬」という儀式に使用される道具が出土しており、聖なる池として古来、水辺の祭祀が執り行われていたことが分かっている。
物見代からの眺望も良く、赤城山・榛名山・妙義山・浅間山など上野の名山を見ることができ、男体山や筑波山、遠くは富士山、スカイツリーまでも見渡すことができる。
土塁や、大堀切も必見で、その遺構の多さから日本100名城にも選ばれている。
金山城中腹には太田市立史跡金山城跡ガイダンスもあり無料で遺構を学ぶことができる。
上杉氏、武田氏、北条氏を退けた名城・金山城、必見だ。
城データ
城名:金山城、太田金山城、新田金山城
築城者:岩松家純
主要城主:岩松氏・由良氏・北条氏
主な遺構:大手虎口、石垣、日ノ池、月ノ池、大堀切、土塁
所在地:群馬県太田市金山町40(金山城址 展望駐車場)
駐車場:無料駐車場有
連絡先:0276-25-1067(太田市立史跡金山城跡ガイダンス)
開館時間:9:00〜17:00(最終入館は16:30)
休館日:月曜日(月曜休日の場合は翌日)、12/29〜1/3
入館料:無料
アクセス:東武伊勢崎線 太田駅から徒歩約50分
北関東自動車道「太田桐生IC」から車で約10分
指定文化財:国指定
日本100名城
みどころ
・大手虎口3m超の石垣
・関東では珍しい石垣を多用した山城
・水祭祀を行ったとされる「聖地」日ノ池、月ノ池
・土塁、堀切
・赤城山・榛名山・妙義山・浅間山など上野の名山を見ることができる物見代
・富士山や、スカイツリーまでも見渡すことができる眺望
他
おすすめ記事