武田三堅城のひとつ
対織田家を想定した鉄壁の城
あの日本一の兵(つわもの)と呼ばれた真田一族。
真田氏の山城がここにある。武田三堅城の一つとして数られている岩櫃城。
絶壁の岩櫃山に築かれた城は、対織田軍を想定して築かれた鉄壁の城であった。
見事な山城は続日本100名城にも選定されている。
それでは天険の山城・岩櫃城を御堪能あれ。
目次
①岩櫃城の歴史
②縄張りと遺構
③忠義の証
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・岩櫃城の歴史
岩櫃城の詳しい歴史は未だ不明で、鎌倉時代にこの地を治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ていない。
戦国時代、上杉謙信がこの地を攻め、斎藤憲広が岩櫃城を拠点に吾妻郡一体を支配していたとされている。
近年の研究では上野攻略のため武田信玄が新たに岩櫃城を築いたとされる説もある。
いずれにしても武田家家臣である真田幸隆が斎藤氏を越後に追いやり、
その功として、真田幸隆・昌幸親子に岩櫃城が与えられ上野侵攻の重要拠点となる。
・縄張りと遺構
標高802メートルの天険な山はその絶壁を見ただけで戦意が喪失する。
さすがは真田の山城といったところか。本丸は山の中腹に位置し、西に吾妻川や柳沢城、北には岩櫃山の絶壁、東には郷原城を配置、南は急斜面となっており、天然の要害を活かした難攻不落の山城となっている。
近世城郭のような石垣や天守は使用されていないが、土塁は固く締められ何本もの竪堀を巡らし、北西には2重の薬研堀と、土の城として完成された城である。
・忠義の証
岩櫃城には幻の館がある。
籠城の天才・真田昌幸にはこの城を中心に武田家再興を果たすとの考えがあった。
天正10年(1582年)長篠の戦いにて大敗した武田家を攻略しようと、いよいよ織田軍が甲州討伐を開始する。
数々の裏切りが出ている中で甲斐(現在の山梨県)で、戦うのは不利と考えた昌幸は主君・勝頼に、自城の岩櫃城まで引くことを進言。勝頼の同意を受けた昌幸は先に岩櫃に戻り、3日で勝頼の館を建造する。
しかし勝頼は小山田信茂が進言する岩殿城へ向かった。
結局、信茂の迎えの兵は来ず、追いつめられた勝頼は天目山にて自害。名門武田家は滅びたのである。
その3か月後には本能寺の変が起こり、信長は自害。明智光秀に討たれている。
もし勝頼が岩櫃城に来ていれば……。と想像せざるおえない。
潜龍院跡と呼ばれる館跡は昔、潜龍院という寺があったからだそうだ。
ここは岩櫃の絶壁を望める不思議な空間で、西の入口は狭く、南は土塁と急斜面、北には岩櫃山、東には郷原城と周囲に逃げ場がない構造となっていて、いったん入り込めば最後、上から矢や鉄砲、石落としなどの攻撃があり、郷原城からは守備兵からの攻撃、いざとなれば郷原城から岩櫃城まで逃げることもできる天然の枡形構造となっている。
そんな岩櫃城も関ヶ原合戦後、真田信之が沼田に入り岩櫃も管理下の置かれるが、慶長19年(1614年)一国一城令により岩櫃城は破却された。
現在も多くの遺構が残っている。
城データ
城名:岩櫃城
築城者:不明
主要城主:斎藤氏、真田氏
主な遺構:土塁、空堀、堀切、虎口
所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町
連絡先:0279-68-2111(東吾妻町役場 まちづくり推進課)
アクセス:JR群馬原町駅から徒歩で60分
渋川伊香保ICより車で約45分
無料駐車場有
指定文化財:国指定
みどころ
・群馬100名山の岩櫃山
・堀切
・土塁
・見事な眺望
・幻の館(潜龍院跡)
他
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