川中島争奪戦・重要拠点
武田氏・上杉氏両軍が欲した城
あの武田・上杉両軍が死力を尽くした合戦、川中島の戦いにて重要拠点となった城がある。長野市のシンボルともされる標高785mの旭山に築かれた旭山城だ。
頂上からは善光寺平が一望できる素晴らしい景観をもち、石垣を多用した当時の最先端技術を詰め込んだ山城。
この旭山城の争奪戦が武田・上杉両軍にて行われた。
それでは、第二次川中島の合戦の舞台になった旭山城をご堪能あれ。
目次
①旭山城の誕生
②第一次川中島の合戦
③第二次川中島の合戦
④縄張りと遺構
⑤第三次川中島の合戦
⑥第四次川中島の合戦
⑦城データ(所在地はこちら)
⑧みどころ
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・旭山城の誕生
築城年数や築城者に不明な点が多いが、旭山城が歴史の表舞台に登場するのは天分24年(1555年)第二次川中島の合戦時である。
信濃を手中に治めるべく攻略に乗り出した信玄の前に、信濃諸将たちは次々と敗れていく。
信玄に敗れた村上義清は、越後(現新潟県)・上杉謙信(長尾景虎)の庇護を受け、旧領奪還の悲願に燃える。
謙信にとって川中島は、越後・信濃(現長野県)の国境に位置し、肥沃な土地が広がり交通の要所でもある。ここを奪われると越後も危うくなるため、何としても死守すべき場所であった。
そして、ここ川中島の争奪戦は、5回に渡って繰り広げられ、戦国の代表的な合戦となる。
・第一次川中島の合戦
第一次川中島の合戦は、天文23年(1553年)に事が起こる。
武田軍は北信濃の雄・村上義清を越後に追いやり、いよいよ善光寺平への侵攻を開始する。
しかしその進路を阻んだのは、越後勢の援護を受けた村上義清であった。
「更科八幡の戦い」にて先方を崩された武田軍は撤退。
勢いに乗った村上勢は、居城であった葛尾城・荒砥城の奪還に成功する。
不意を受けた武田軍は、すぐさま軍勢を整え、葛尾城へ侵攻。
本陣を塩田城へ置き、葛尾城・荒砥城を攻略。たまらず村上勢は越後に撤退する。
再び埴科郡・小県郡の攻略に成功するのである。
・第二次川中島の合戦
善光寺平(長野盆地)を手中に治めるべく、両軍の争奪戦は激しくなり、より有利に戦うため善光寺山域に山城を築城。両軍、山城の争奪戦に発展していく。
戦を有利に進めるためにも防御にも優れ、全てを見渡せる山城が必要だったのだ。
ここに登場するのが旭山城である。
信玄は善光寺西にある峻険な独立峰・旭山に目を付けた。
旭山城は越後勢・栗田氏の支城であったが、信玄得意の調略により栗田氏を味方に引き入れる。
旭山城を、空堀、竪堀、石垣、枡形など強固な城に築き上げ、3,000名の援軍と弓800張・鉄砲300挺を与え旭山城を守り、上杉謙信の南下を防いだ。
栗田氏は善光寺別当職についており、善光寺を抑えることは経済的にも重要であった。
信玄自らも、善光寺平を通る犀川を隔てた場所に後詰めとして陣を敷き、対する上杉謙信は旭山城から直線距離にし約1.5キロしか離れていない、標高812mの葛山に城を築き対抗した。
膠着状態が続き、実に200日以上の対峙となった。
両軍疲弊激しく、ついに今川義元の仲介にて、旭山城の破却と村上氏以外の信濃諸将の旧領回復を条件に和睦が成立。第二次川中島の合戦は終了したのである。
それほどに謙信は旭山城を警戒していた。
その証拠に2年後の、弘治3年(1557年)に勃発した第三次川中島の合戦では、上杉謙信が旭山城を修築し陣を敷いている。
・縄張りと遺構
旭山城は山麓東側に裾花川、南側に犀川が流れる天然の要害で、山頂に東西約36m、南北約38m四方の主郭を土塁で囲み、山腹には腰曲輪群と巨大な竪堀を配置している。
東に延びる尾根づたいに二の曲輪、三の曲輪を配置、曲輪と曲輪の間には堀切にて敵の侵入を遮断する。
最東端からの眺望は善光寺平を一望でき、容易に敵の動きを察知できる。
本丸、曲輪には石垣が多数がみられ、当時の最先端技術を駆使して築城されたのがわかる。
・第三次川中島の合戦
弘治3年(1557年)、信玄は和睦を反故にし上杉軍が雪で動けない2月に、上杉方最大拠点であった葛尾城を攻めた。
葛尾城陥落により謙信の善光寺平における支配域は大幅に後退し、信玄は北方に領土を広げたことになる。
これに激怒した謙信は雪解けを待って4月に善光寺平に出兵し、破城された旭山城に陣を敷く。
第三次川中島の合戦の開戦である。
8月、上野原にて両軍の衝突があり多数の死者が出るも、雌雄を決するまでには至らず約150日間の対峙の後、謙信は陣を払い帰国した。
この戦いで信玄は、多くの内応者を出すことに成功し、ほぼ北信濃を手中に治めることになる。
その後、信玄は室町幕府13代将軍・足利義輝より信濃守護職を与えられ、正式に信濃国主に任命された。
・第四次川中島の合戦
そして弘治4年(1558年)には、龍虎雌雄を決した第四次川中島の合戦が行われる。
(第四次川中島の合戦は 松代城 に記したため御堪能いただきたい。)
この第四次川中島の合戦、上杉軍撤退の際、旭山城から駆け下りた越後勢の援軍にて窮地を脱し、謙信は撤退に成功したと伝わっている。
第四次川中島の合戦以降、川中島は武田領となり旭山城も廃城となった。
これまでの山城は、詰城・籠城のためとして守の役割が主であったが、川中島の合戦により、攻める城として、合戦の戦略上、重要な役割も担うこととなり、山城の支配が戦の勝敗を左右した。
信玄の山城運用法が、今後の合戦に大きな影響を与えていくこととなる。
現在の旭山城は、破城にともない石垣が散乱し、当時の情景を感じることができる。
城データ
城名:旭山城、朝日山城
築城者:不明、武田信玄
主要城主:栗田氏、武田氏、上杉氏
主な遺構:土塁、堀切、竪掘、石垣
所在地:長野県長野市
駐車場:長野県長野市平柴605(朝日山観世音堂 社務所)
連絡先:026-224-8316(長野市観光振興課)
アクセス:須坂長野東 ICから朝日山観世音堂 まで16km 車で約30分
朝日山観世音堂 から徒歩30分
JR「長野駅」より約6km 徒歩約1時間30分
無料駐車場有
みどころ
・土塁、竪堀、石垣
・破城跡
・本丸からの眺望
他
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