戦国最強の居城
風林火山の旗本
人は石垣・人は城・情けは味方・仇は敵なり
有名な武田信玄公の名言だ。
その名言通りに居城・甲府には強固な城を築かなかった。
100万石を超える大大名の居城は終始、中世式の質素な館で生涯を終えたのである。
強固な城より民の団結に力をそそいだ信玄の偉業は、今も名君のとして語られている。
その信玄を守ったのが、武田の有能な家臣達だ。
板垣信方、甘利虎康を始め、馬場信房、飯富昌景、高坂昌信、内藤昌豊、真田幸隆、山本勘助など特に功績があった家臣達は武田二十四将と呼ばれる。
有名な武田二十四将図には23名の家臣しか描かれていない。武田最強軍団は信玄なくして完成はしない。主君である信玄を入れて24将と呼んでいるのだ。石垣より、天守より、人を大切にした信玄は、戦国最強と称される武田軍団を作り上げた。
あの天下人、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も恐れた戦国最強の武将の居城を御堪能あれ。
目次
①躑躅ヶ崎館の誕生
②戦国最強の武将・武田信玄
③信玄死後
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
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・躑躅ヶ崎館の誕生
中世の館とはいえさすがは戦国最強の居城。
空堀、三日月堀、丸馬出など甲州流築城術の粋を集めた館である。
躑躅ヶ崎館は信玄の父・信虎の時代より、息子・勝頼の代まで3代の居城であった。
甲府とは文字通り、甲斐の府中である。
甲斐は小京都ともいえる町並みがなされていて、館を最北端に配置。館の背後には甲斐の山々、南には重臣達の武家屋敷を配置し、さらにその南側には職人町や市場町が広がりをみせ、効率的な国の運営だけではなく、城下町ともいえる館を守る町割りになっていた。
さらに東西には富士川、相川にて敵を阻み、館の背後には要害山城という後詰めの山城を設け、いざというときに備えている。甲府全体が防御施設のような極めて理に適った町割りである。
・戦国最強の武将・武田信玄
では城を散策するにあたり、少し武田信玄の人物像に触れておこう。
疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し
武田家軍旗、風林火山の旗印である。
中国の戦略家・孫子に学び、この風林火山の旗がはためくところ敵なし。
信玄が采配する軍は千変万化。その組織力と統率力にて戦国最強の軍団を作り上げた。
軍略、政略、領国経営に優れ、王道をもって国を統治した、戦国最強の武将である。
その功績は現在も生きており、
信玄自ら定めた甲州法度二十四か条は、後の徳川幕府が出した武家諸法度の手本となっている。
金山開拓では、金山州と呼ばれる発掘集団を結成。甲州金と呼ばれる、莫大な金を発掘し軍事、経済を統治した。
治水事業では、度重なる氾濫から民を守るため、15年もの歳月を費やし、治水工事を行い、その手法は近代治水土木の先駆けとして評されている。
特産品の奨励にも尽力、ぶどう、もも、梨、栗、柿、木綿、絹結、蚕などの生産に力を入れ、領民の暮らしを豊かにさせている。
余談であるが、ここ躑躅ヶ崎館には、「草木(臭き)に絶えず」ということで「山」と呼ばれていた場所があった。合図を出すと家臣がお風呂の残り湯を流した、日本初の水栓トイレである。信玄はここ「山」で物事を考えることが多かったらしく、広さは6畳もあり、紙や筆、勢力図等も備えていた。最強の戦術もここ「山」で生み出されたのかもしれない。
武田軍総帥として圧倒的な存在感がある信玄だが、その人生は苦悩の連続だった。
悪政を行う父を国内から追放し、戦で多くの家臣を失い、長男・義信の謀反により幽閉、後に義信は自害している。困難を極める領国経営、宿敵・上杉謙信との戦い。
その苦悩を一つ一つ乗り越え、最強と称される人物へと成長していったのである。
信濃、上野、駿河、三河を手中に収め、いよいよ信長との戦いというときに病にて没してしまう。あと5年、いや3年、寿命が長ければ京の都に風林火山の旗がはためいていたかもしれない。
・信玄死後
信玄が没してから3年後、後継者・四郎勝頼は長篠の戦いにて織田、徳川連合軍に敗れ、敗走。
躑躅ヶ崎館では大軍を防げないと判断し、甲斐の韮崎にて新府城を築城し移っている。
こうして武田3代、約60年にわたる躑躅ヶ崎館の役目は終わるのである。
城データ
城名:躑躅ヶ崎館、武田氏館
築城者:武田信虎
主要城主:武田氏
主な遺構:曲輪、水堀、三日月堀、土塁、井戸、空切、石垣
所在地:山梨県甲府市古府中町2611
連絡先:055-252-2609(武田神社社務所)
アクセス:中央自動車道 甲府昭和I.C.より30分程
JR甲府駅(北口)よりバス利用で約8分
無料駐車場有
指定文化財:国指定
日本100名城
みどころ
・中世式の居館
・曲輪、水堀、三日月堀、土塁、井戸、空堀、石垣
・現在も発掘中の遺構
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