北条討伐本陣
一夜にして出現した城
本日は石垣山一夜城を紹介したい。
天正13年(1583年)豊臣秀吉は官位最高職の関白に就任。
九州を統一、駿河(静岡県)の徳川家康を服従させ、いよいよ天下統一へ号令を出した。
惣無事令を発し、諸大名らに私戦の禁止を命じたのである。
関東の覇者であった北条氏直はこれを真っ向から否定。上野(群馬県)の真田領であった名胡桃城を攻撃し、秀吉と対立する姿勢を見せた。
これに激怒した関白・秀吉は、朝廷より北条討伐の勅許を受け、全国の大名を招集。
天正18年(1590年)、秀吉の下には22万もの大軍が集まり、北条討伐のため進軍する。この北条討伐の陣城として作られたのが石垣山一夜城である。
標高262mの石垣山からは小田原の町が一望できる。
それでは天下統一戦の本陣を御堪能あれ。
目次
①石垣山一夜城の誕生
②小田原討伐のその後
③城データ(所在地はこちら)
④みどころ
⑤おすすめ記事
・石垣山一夜城の誕生
北条氏の本陣・小田原城は上杉謙信も武田信玄も落とせなかった、難攻不落の城である。
この小田原城をもって籠城すれば、有利な条件にて和睦を勝ち取ることができると踏み、籠城を決意。
小田原の街がすっぽりと入ってしまう総構えと言われている巨大城郭は、さすがの秀吉も力攻めをやめ兵糧攻めでの戦となった。
秀吉軍・22万の大軍で小田原を完全に包囲。
自らは小田原を一望できる石垣山に城を築く。
わずか80日で築城されたこの城は、安土城、大阪城の石垣を築いた穴太衆を呼び寄せ、関東で初めての総石垣で造られた。
単なる陣城ではなく、天下人の威光を象徴する城となっている。城には茶室も完備されており、千利休や側室・淀君、能役者をよび茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりと、優雅な戦を展開。
北条方の城は秀吉軍の前に次々と陥落。小田原城は孤立した。
築城を終えた秀吉は、石垣山の木々を一斉に切り倒した。
北条方から見れば一夜にして城が出現したように思えたであろう。
この城を見た北条氏は戦意喪失し降伏。
北条氏政・氏直親子は自らの命と引き換えに城兵を助ける約束をし自害。
ここに関東の覇者であった北条氏は滅亡するのである。
・小田原討伐のその後
その後、論功行賞にて徳川家康が三河より関東240万石にて転封。
以来、江戸に現在の日本の首都、東京の礎である江戸幕府を開くこととなる。
家康が関東に入ってからも石垣山一夜城は存続した。
秀吉が家康の監視の城として廃城にしなかったかもしれない。
その遺構は現在も良好に残っている。
城データ
城名:石垣山一夜城、石垣山城、一夜城
築城者:豊臣秀吉
主要城主:豊臣氏
主な遺構:石垣、曲輪、空堀、土塁、井戸、堀切
所在地:神奈川県小田原市早川1383-12
連絡先:0465-23-1373(小田原城総合管理事務所)
アクセス:箱根口ICより車で約10分
指定文化財:国指定
みどころ
・穴太積みの石垣
・淀君も使用した井戸曲輪
・小田原市街を一望できる眺望
・石切場
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