鷹留城

中世城郭

埋もれた名城・鷹留城

 

群馬県高崎市下室田にある鷹留城はご存じてあろうか。

上野長野氏の拠点となった城で、500年以上経った今でも保存状態がよくその原型を留めている。

中世の城ながら見応えがあり、これほどの城がなぜ知られていないのか不思議なくらいだ。隠れた名城といえよう。

それでは埋もれた名城・鷹留城をご堪能あれ。

鷹留城 大手口

 




 

目次

①鷹留城の歴史
②鷹留城落城
③その後の鷹留長野氏と城
④鷹留城の縄張り
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事

 

・鷹留城の歴史

鷹留城の築城時期については詳しいことがよくわかっておらず、14世紀後半から15世紀前半に、長野業尚によって築城されたとされている。

長野氏は上野在長官人・石上(いそのかみ)氏の末裔と伝えられており、15世紀後半には関東管領である山内上杉氏に仕えていた。

鷹留城を中心に西上野一帯をまとめていた。

鷹留城から見る高崎市下室田町

鷹留城  搦手口

15世紀になると朝廷・幕府といった中央政権の力が弱まり戦国乱世へと突入していく。

関東でも関東管領・山内上杉氏の力は弱まり、小田原北条氏が台頭する。

そこに西の甲斐国から武田信玄、北の越後国から上杉謙信とそれぞれが関東へ進攻し、戦乱の渦へと巻き込まれていく。

そのためにより巨大で強固な城が必要となり、鷹留城より約10㎞離れた箕輪城を築き本拠を移している。

 

→ 箕輪城の詳細はこちら

 



 

・鷹留城落城

本拠を移してからも箕輪城の支城として存続し、相互援助の役割を果たしていた。

鷹留城には業正の兄・業氏が引き継ぎ、鷹留長野氏として存続する。

鷹留城 搦手口

長野氏は60もを超える砦や支城ネットワークを駆使し、北条氏、武田氏の侵攻を何度も防いでいた。

鷹留城 土塁

しかし永禄9年(1566年)、武田信玄が関東進攻を本格化し、2万の大軍を率いて躑躅ヶ崎館を出陣する。

松井田城、安中城、里見城、倉賀野城等を落城させ長野氏本拠の箕輪城へと迫った。

 




 

鷹留城 大手口

信玄はまず鷹留城との連携を断つことを優先する。

鷹留城には業氏の子・長野業勝、業固が守っており、勇猛果敢に武田勢の猛攻に抵抗するも、城兵から裏切りが出て、城に火を放ったため業勝は箕輪城へと落ち延び延びている。

こうして鷹留城は落城した。

鷹留城 空堀跡

・その後の鷹留長野氏と城

その後の鷹留長野氏は、業勝は箕輪城で討死。

業固の詳細は不明だが、長野氏の菩提寺・長年寺には累代の墓があり、その中に業固の文字が見える。

業固は鷹留城落城後も生き延びていた。

長年寺には長野氏の家紋、檜扇が掲げられている。

長年寺 檜扇家紋

 



 

長年寺 長野氏の墓

その後、箕輪城には武田四天王の一人である内藤修理亮昌豊が入り、鷹留城も武田方の城として活躍したであろう。

この頃の正確な資料は発見されていない。

長年寺 乳金具

武田氏滅亡後は織田家重臣・滝川一益が上野を治め、
わずか3カ月で本能寺の変が起こり、織田信長が倒れると、「神流川の合戦」にて小田原北条氏に敗北。

一益は伊勢へと退却した。

鷹留城 石垣跡

鷹留城 礎石跡

西上野は北条氏が治め、鷹留城より南に約1km離れた、街道沿いにある山に新たに松山城を築き、吾妻方面の真田氏に備えた。

 




 

鷹留城は堅城であるが、街道より奥に築かれた山城ということもあり、軍事拠点とするのには交通の便が悪かった。松山城の詰城として利用されたであろう。

こうして鷹留城は次第にその役割を終え、廃城となっている。

鷹留城 慰霊碑

・鷹留城の縄張り

鷹留城は榛名山から南に延びた標高346mの尾根筋に築かれており、中島川、沢田川に挟まれた要害堅固な城である。

中世の城ながらも堀は深く、高さ15mはあろう。現代でいうとビル5階建ての高さに相当する。

箕輪城でも驚かされたが、この堀切だけでも一見の価値はあろう。全国屈指の堀切である。

鷹留城 空堀と朝日

やはり長野氏の城ということで、基本縄張りは箕輪城と似ている。

城南側より搦め手口、小曲輪、稲荷曲輪、本丸、二ノ丸、三ノ丸、大手口となる。

 



 

鷹留城 腰曲輪

山頂部に東西約60m、南北約30mの本丸を配置し、本丸を中心に東西の斜面上、大小いくつの腰曲輪を配置し本丸を守る。

本丸北側に稲荷曲輪、南側に二ノ丸、本丸周囲には幅約30m、高さ約15mの堀切が巡っている。この堀切によって各曲輪は独立している。

鷹留城 腰曲輪

鷹留城 本丸を巡る空堀

鷹留城 本丸跡

現在、二の丸、本丸には石段が築かれているが、これは後世の物で当時は、曲輪と曲輪の間を木橋で繋いでいたと想像される。

鷹留城 本丸石段

 




 

鷹留城 本丸から見る二の丸

二ノ丸南には三ノ丸を配置。

二ノ丸と三ノ丸の間にも巨大な堀切、竪堀で仕切られており、木橋を落とせば本城とは独立した曲輪となる。

一城別郭の配置ともいえるだろう。

鷹留城 竪堀

鷹留城 空堀

鷹留城 三の丸から見た二の丸

一部には石垣と思われる遺構もみられ、当時でも最先端の技術を導入された堅城だ。

最もこの石垣は矢や鉄砲を防ぐというよりも、崩落防止の役割が大きいだろう。

鷹留城 石垣跡

鷹留城 石垣跡

本丸北側の稲荷曲輪と小曲輪には土橋が確認できる。

 



 

鷹留城 土橋

搦手口、南側には武右衛門屋敷があったとされる。

現在は武右衛門屋敷と鷹留城の間には榛名南麓広域営農団地農道が走っており、分断される形となっているが、当時は尾根伝いに繋がっていたと思われ南側の守備を固める門番であったのではないだろうか。詳細は分かっていない。

鷹留城 武右衛門屋敷跡

鷹留城 武右衛門屋敷跡

鷹留城から見る妙義山

上州の山奥でひっそりと遺構を伝える鷹留城。

県内を代表する名城といえよう。

鷹留城外観

 



 

城データ

城名:鷹留城

築城者:長野業尚

主要城主:長野氏、武田氏、織田氏、北条氏

主な遺構:土塁、堀切、石垣、土橋

所在地:群馬県高崎市下室田町

連絡先:027-321-1292(高崎市文化財保護課)

アクセス:関越自動車道前橋ICから約30分

指定文化財:市史跡

GoogleMap

 

みどころ

・幅30m、高さ15mはあろう堀切

・500年経った現在でも良好に残る遺構

・土橋、石垣

 

おすすめ記事

箕輪城 岩櫃城 躑躅ヶ崎城 

 




 

 

 

1983年2月生まれ 戦国写真家

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA