西上州最大拠点
『上州の黄斑』と呼ばれた武将の居城
『上州の黄斑(虎)』と呼ばれた武将がいる。
西上州(現・群馬県西部)一帯を支配した長野業正だ。
あの武田信玄に「業正がいる限り上州には手が出せぬ」と嘆かせた。
戦国最強と称された武田軍を6度も退けたとされる猛将である。
その長野氏が居城としたのが、今回紹介する箕輪城だ。
榛名山の東南麓に広がる独立丘陵に築かれた箕輪城は、東西約500m、南北約1,100m、面積36ヘクタール(東京ドーム約7.7個分)に及ぶ。
関東屈指の巨大平山城で現在まで良好に遺構が残り、平成17年(2005年)には日本100名城に選定されている。特に城内の大堀切は圧巻で、全国屈指の規模を誇る。
中世から近世城郭の技術を併せ持つ関東屈指の名城だ。
それでは、西上州最大拠点・箕輪城を御堪能あれ。
目次
①箕輪城の歴史
②上州の黄斑・長野業正
③武田氏入城
④井伊氏入城
⑤箕輪城の縄張り
⑥城データ(所在地はこちら)
⑦みどころ
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・箕輪城の歴史
まず登城時に驚かせられたのはその堀の広さ、深さである。度肝を抜かれた。
重機も無い時代によくこれだけのものが造れたものだ。
攻め手からすると、見た瞬間、開いた口が塞がらない。「ここを攻めるんですか」と諦めたくなるレベルだ。
さらに堀切の上には曲輪があり、塀や城門が築かれており、そこから無数の城兵が弓、鉄砲を撃ちかけてくる。とてもじゃないが突破できそうにない。
こんな鉄壁の城を築いた武将達はどんな人物であったのか、詳しくみていこう。
箕輪城の築城時期については詳しいことがわかっておらず、15世紀後半にこの地域一帯を支配していた、長野氏によって築城されたとされている。
長野氏は上野在長官人・石上(いそのかみ)氏の末裔と伝えられており、15世紀には関東管領である山内上杉氏に仕えていた。
15世紀前半には箕輪城より5km離れた鷹留城を本拠としていたが分かっている。
「鷹留城」詳しくはこちら→
この頃、関東一円では享徳の乱が勃発しており常に臨戦状態にあった。
この戦乱期に時の当主・長野業尚(なりひさ)、またはその子・信業が箕輪城を築城し、鷹留城より本拠を移したと考えられている。
その後、城を中心に西上野へと支配域を広げ、厩橋城から吾妻方面まで治めていたと云う。長野業正の代には、周囲の豪族・国人と婚姻関係を築き、「箕輪衆」と呼ばれた集団を結束し取りまとめるまで拡大した。
・上州の黄斑・長野業正
天文15年(1546年)河越の合戦にて関東連合軍が小田原北条氏に敗れると、主家である関東管領・山内上杉氏も衰退の一歩を辿る。
当主の上杉憲政は、遂に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、落ち延びていった。業正は主家が滅んだ後も最後まで小田原北条氏と敵対し続けている。
上杉謙信が関東管領職を引き継ぎ北条討伐の兵を起こすと、関東諸侯はこれに従い10万を超える兵力となった。
業正も「箕輪衆」を引き連れ、謙信の元に参陣し小田原城を攻めている。
この頃、甲斐(現・山梨県)の武田信玄、相模(現・神奈川県)の北条氏康、駿河(現・静岡県)の今川義元の甲相駿三国同盟が締結しており、北条氏康の要請により武田信玄が信濃(現・長野県)より越後を脅かしたため、上杉軍は小田原城を落とすことが出来ず、何ら成果も挙げられずに軍勢を解散している。
度重なる謙信の関東侵出のため、隣接する佐久方面を支配していた武田信玄は危機感を覚え、北条氏の強い要請もあり、遂には西上野侵攻へと兵を進めることになる。
ここで長野業正の猛攻がはじまる。
弘治3年(1557年)進攻してくる武田軍に対し、長野業正は箕輪衆を率いて瓶尻(みかじり)にて迎い討つ。が、味方の兵は動揺しこれには敗れてしまう。
業正は自ら殿りを努め箕輪城へと撤退し、籠城戦にて武田軍を退かせている。
永禄2年(1559年)若田原の戦いでは、鼻高砦に陣取る武田軍に対し、業正は若田原に陣を敷き奇襲を仕掛けた。
武田軍を翻弄して撤退させている。
永禄3年(1560年)には、国峰城の小幡憲重・信真親子は関東管領・上杉憲政が越後へ落ち延びると武田方に仕えていた。
小幡氏と長野氏は婚姻関係にあったが、武田方ある国峰城を内紛に乗じ奪うことに成功。憲重・信真親子は信玄に救援を要請し、信州より飯富虎昌、小山田信義を救援に向かわせる。
武田軍が現在の甘楽郡付近に差し掛かったところで戦となったが、長野軍は糧道を断ち、遂には武田軍を撤退させている。
度重なる上野侵攻に失敗した信玄は、「業正がいる限り上州には手が出せぬ」と嘆かせた。
しかし『上州の黄斑(虎)』と呼ばれた業正も永禄4年(1561年)に病死。
家督は三男の業盛が継いだ。
関八州古戦録には、
業正が死去する前、跡継ぎの業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならぬ。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言を残したと云う。
まさに武将の鏡ともいう人物である。
・武田氏入城
業正の死去を知った信玄は、本格的に西上野侵攻へと動く。
佐久群松原神社で戦勝祈願し、上野高田城、国峰城、鎌原城、和田城と次々と箕輪衆の城を落としていく。
永禄6年(1563年)には北条氏康と共闘し、上野松山城を落城させ、真田幸隆が岩櫃城を攻略。
永禄9年(1566年)、ついに信玄は2万の大軍を率いて躑躅ヶ崎館を出陣した。
そして松井田城、安中城、里見城、倉賀野城と落城させ箕輪城へと迫った。
これに対し迎え撃つ長野勢は1,500。
業盛は勇猛にも城から打って出て板鼻(現・安中市)にて攻撃をしかけるも、多勢に無勢。箕輪城へ引き返し、籠城戦に切り替えた。
武田勢はまず、鷹留城との連携を断った。
鷹留城は長野一族である業勝、業固が守っており、武田の猛攻に抵抗するも、武田方への内応者が現れ、城に火を放ったため業勝は落ち延び箕輪城へと入った。
後顧の憂いを断った信玄は、ついに箕輪城に総攻撃の下知をくだすのである。
しかしさすがは西上野随一の堅城・箕輪城。
自然の地形を活かした天然の要害は、業盛の元、長野勢の結束は強く「長野十六槍」と呼ばれた剣聖・上泉伊勢守信綱を始め、白川満勝、大道寺信方、岸信保、等の勇将が城を固めており簡単には落ちなかった。
しかし二日二晩、総攻撃受けた長野勢は200あまりになっていた。
業盛は最後の最後まで降伏を拒み続け、最後は城兵全員で打って出て一戦し、城中の御前曲輪にて父・業正の遺言通りに切腹。城を枕に討死した。
こうして箕輪城は落城した。
業盛、辞世の句である。
「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」
享年27。
ついに箕輪城を掌中に治めた信玄は、真田幸隆に城の改修を命じ、西上州最大拠点として武田四天王の一人である内藤修理亮昌豊を城主として、西上野七群の郡代に任じている。
・井伊氏入城
天正10年(1582年)武田氏が滅びると、織田家重臣の滝川一益が上野へと入った。
しかしその僅か3ヵ月後、織田信長が本能寺の変にて倒れると、神流川の合戦にて北条氏に敗れてしまう。
箕輪城へは北条氏邦が城代となり、城を更に強固に改修。
天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐にて前田利家、上杉景勝、真田幸昌らの豊臣軍が上野へ侵攻し、圧倒的な戦力を前に箕輪城は為すすべもなく落城している。
北条氏は滅ぼされ、関東には徳川家康が入った。
上野には井伊直政が徳川家中最大の12万石にて箕輪城城主となる。
直政によって城は近世城郭へと改修され、現在の姿となっている。
その後、直政は政治的観点から高崎城を築城し約100年続いた箕輪城は廃城となった。
・箕輪城の縄張り
榛名山の東南麓に広がる独立丘陵に築かれた箕輪城、城の西側には榛名白川が流れ、南は椿名沼の湿地帯が広がった天然の要害で、武田の軍勢を何度も退けた難攻不落の城だ。
城内で最も高い標高280mに霊置山。そして御前曲輪、本丸、二の丸、郭馬出と尾根上の曲輪を城の中心とし、北側から東回りに新曲輪、稲荷曲輪、通仲曲輪、蔵屋敷、鍛冶曲輪、三の丸、木俣にて本丸を囲み、各曲輪を空堀を巡らした平山城である。
その形が「箕」の字に似ていることから箕輪と名付けられたという。
現在の遺構は井伊氏時代のもので、高崎市では平成10年から18年まで発掘調査が行われた。その結果、大きく3期に分けて縄張りが変化していることが分かる。
1期目は長野氏・武田氏時代、2期目は小田原北条氏時代、3期目は井伊氏時代である。
長野氏時代に箕輪城の原型が構築され、武田氏時代に丸馬出など甲州流築城術が加えられ、小田原北条氏時代には三の丸、大堀切の要所に約1.3mの石垣が積まれ、井伊氏時代に近世城郭技術にて改修された。
上野国の中心拠点として各大名は最新の築城技術を駆使し箕輪城は変貌を遂げた。
箕輪城のみどころは何といっても本丸を巡る大堀切であろう。
幅30m~40m、深さ10mと全国でも屈指の堀だ。しかも発掘調査で今よりも2倍の深さがあったことが分かっている。この堀は井伊氏時代の物とされ、崩落防止のため一部、石垣が使用されている。
では順に縄張りを見ていこう。
箕輪城には現在7つの登城口がある。本丸南側に大手尾根筋口、観音様口、榛名口、東側に搦手口、北に霊置山口、西に大手虎韜門口、大堀切口である。
縄張りは井伊氏時代のもので、北条氏時代までは城の西側、搦手口が大手口であったとされている。
城の玄関口である南西には大手門があり、間口11m、奥行き4.4mの巨大な櫓門にて厳重に敵の侵入を防ぎ、大手門の前には30m四方の丸戸張と呼ばれる郭馬出が配置されていた。
大手口を抜けると、今度は「虎韜門(ことうもん)」跡が現れる。鍛冶曲輪へと抜ける大手ルートを守る重要な門であった。井伊直政が中国の兵書「六韜三略」の虎の巻より取り名付けたといわれる。
跡地には石垣の一部が残る。
その西側には「埋門(うずみもん)」跡があり、白川河原にでる秘密の通路にて、西部城外への道は唯一である。箕輪城から西に約10kmの鷹留城とは別城一郭という相互援助の城であったと案内板にはある。
別城一郭とするのには距離が離れすぎているが、箕輪城と鷹留城は相互で後詰の役割を果たしており、切っても切れない関係にあった。場内からこの埋門を通り連携をとっていたのであろう。
武田信玄もまず鷹留城との連携を断つことから始めている。
埋門跡が残っているのは県下に一か所である。
虎韜門東側には城を南北に分ける大堀切がある。現在は郭馬出に抜ける大堀切口である。
その規模は圧巻で、幅30m、深さ9mあり、これを突破するのは至難の業である。
さらに平成13年(2001年)の発掘調査にて、堀低に石垣が発見され、当時の大堀切は7.5m以上深かったとされる。
つまり深さ16.5m以上、5階建てビル以上の深さである。
この大堀切の突破を避けると、虎韜門から鍛冶曲輪へと出る。
鍛冶曲輪は中世の城にはよく見られる曲輪とされ、武具の製造・修理をした場所と考えられている。
敵の侵入を防ぐため石垣で守られており、現在もその一部を確認することができる。
鍛冶曲輪を抜けると三の丸だ。
三の丸も石垣で厳重に守られており、高さ4.1mと城内で最も高い石垣が積まれており、関ヶ原以前の関東では有数の規模の石垣である。これは井伊氏時代に築かれ、この石垣の下層には1.3mの河原石を積んだ石垣が発掘された。北条氏時代にも石垣が積まれていたことが分かっている。
三の丸は蔵屋敷、二の丸へと繋がっている。
蔵屋敷は木橋にて本丸と繋がっており、令和4年(2022年)に長さ29m、幅2.4m、高さ6mの木橋が復元された。橋脚には高崎市産のアカマツを仕様、調査結果や移転先の高崎城にあった「刎橋(はねばし)」の絵図より16世紀末の井伊直政時代の橋をイメージし造られている。
二の丸は縦横約80mの曲輪で、北の本丸を守ると同時に、二の丸から大手方面、搦手方面、木俣方面へと出撃できる攻撃の拠点となっていた。
二の丸南側には、土橋を隔てて南北30m、東西50mの郭馬出へと至り、現在の大手尾根筋口、観音様口、榛名口からの3方向の敵がここ一点に集まる縄張りとなっている。
したがって城の中心を守る防御の要となり、発掘調査にて8石の礎石、雨水を受ける溝も良好に残されており、平成28年(2016年)11月に「郭馬出西虎口門」が復元された。
関ヶ原(1600年)以前では関東で最大の櫓門である。
これらの遺構は関東に入った徳川家康時代の城郭を伝える貴重な資料となっている。
二の丸北側に南北100m、東西70mの本丸があり、周囲には土塁が築かれ、敵から本丸内部が見えないよう造られている。また北と南と西の侵入口には虎口を配置。厳重に守りを固めている。
本丸北側には御前曲輪があり、本丸詰め曲輪である。
城の精神的場所であったとされ、隅には櫓が築かれ石垣で守りを固める。
業盛、最後の場所である。
城の北側入口である北門から入る新曲輪では、甲州流築城術の丸馬出も確認できる。
大堀切にて本丸を仕切り、曲輪と本丸を木橋で繋ぎ、本丸前には馬出を配置するなど、その縄張りは彦根城と類似している点が多い。御存じの通り、井伊氏は関ヶ原合戦後、近江佐和山へ18万石にて転封となり、天下普請にて彦根城を築城している。
箕輪城を参考にして築城したといっても過言ではないだろう。
数々の新発見にて当時の姿が蘇る箕輪城。必見だ。
城データ
城名:箕輪城
築城者:長野業尚または信業、武田信玄、北条氏邦、井伊直正
主要城主:長野氏、武田氏、織田氏、北条氏、井伊氏
主な遺構:土塁、大堀切、石垣、郭馬出西虎口門(復元)、木橋(復元)
所在地:群馬県高崎市箕郷町東明屋
駐車場住所:群馬県高崎市箕郷町東明屋588
連絡先:027-321-1292(高崎市文化財保護課)
アクセス:関越自動車道高崎ICから約30分
JR高崎線高崎駅からバスで約30分
無料駐車場有
指定文化財:国指定
日本100名城
みどころ
・本丸を巡る大堀切
・丸馬出などの甲州流築城術
・野面積みの石垣
・復元された郭馬出西虎口門や木橋
他
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