関東唯一の現存櫓門が残る
水に浮かぶ城・亀城と呼ばれた土浦城
常陸国、現・茨城県土浦市に土浦城という城がある。
土浦市は琵琶湖に次ぐ面積を誇る霞ヶ浦を擁し、慶長9年(1604年)には城下町に水戸街道が整備され、霞ヶ浦を経て江戸へと入る水路も形成された。
土浦城を中心に水戸と江戸を結ぶ水陸交通の拠点として大いに発展し、常陸国では水戸に次ぐ第二の都市へと繫栄した。
この城は、東に霞ヶ浦、南に桜川が流れ、低湿地帯の中の微高地に築かれており、度重なる水害に遭うが、町が水没する中、土浦城だけは水没しなかった。
その姿はまるで水に浮かぶ亀の甲羅ようだったと伝えられている。
平成29年(2017年)には続100名城にも選出され多くの遺構が良好に残っている。
それでは亀城と呼ばれた城・土浦城をご堪能あれ。
目次
①土浦城築城
②小田原征伐とその後
③比類ない働き・土屋氏
④武田流築城術
⑤土浦城の縄張り
⑥城データ(所在地はこちら)
⑦みどころ
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・土浦城築城
土浦城の築城時期については詳しいことは分かっておらず、永享元年(1424から1440年)に若泉三郎によって築いたとされている。
若泉氏は鎌倉時代に活躍した、八田智家の末裔で、常陸守護職の同族である小田氏に仕えていた。
永正13年(1516年)戦国時代に入ると城主・若泉五郎左衛門が小田氏家臣である菅谷勝貞に討ち取られており、勝貞の養父である信太範貞が土浦城城主となっている。
その後、範貞が病死し菅谷勝貞が城主となる。
菅谷氏は主家である小田氏をよく支え、代々、知勇兼備の武将として知られている。
小田氏15代当主・小田氏治の代には隣接する小田原北条氏や佐竹氏との争いが激化しており、小田氏の居城である小田城は9度の落城をしている。
その度に菅谷氏を頼り、土浦城へと敗走している。
「小田城」について詳しくは【戦国最弱?小田氏の居城 不死鳥と呼ばれた武将】をどうぞ
・小田原征伐とその後
菅谷氏は小田氏に従い、小田原北条氏や佐竹氏と争いを続けていたが、天正18年(1590年)関白・豊臣秀吉の小田原征伐が起こり、小田氏は小田原へ参陣しなかったため所領を没収された。
その後、小田氏治は結城秀康の客分となり越前国(現・福井県)にて生涯を終えている。
菅谷氏も最後の最後まで小田氏に従い、その比類なき忠誠心を徳川家康に認められ5千石余りまで加増され、幕末まで存続している。
土浦城は関東に入った徳川家康により、家康の次男・結城秀康に与え、結城領の支城として存続する。
関ケ原合戦後、結城秀康は越前68万石の太守となり、慶長6年(1601年)藤井松平家当主・松平信一が3万5千石にて土浦城へと入城した。
第3代・松平信吉の代には5千石の加増を受け、4万石の大名となり、土浦城を改修、城下町に水戸街道を引き入れるなど土浦の礎を築いている。
元和3年(1617年)信吉は5万石にて上野国(現・群馬県)高崎に移封となり、西尾忠永が入城する。
忠永の子・忠照の代には元和6年(1620年)から7年の歳月を要し、西櫓・東櫓を築き、元和8年(1622年)には正門を櫓門へと改築した。
慶長2年(1649年)には朽木稙綱が入城し、明歴2年(1649年)に本丸正門を太鼓櫓門へと改築し、現在の姿となっている。
寛文9年(1669年)には土屋数直が4万5千石で入城し、初代土浦藩初代藩主となっている。
・比類ない働き・土屋氏
土屋氏は元は武田氏の家臣で、昌続は第四次川中島の戦いにおける戦功にて、武田信玄より名跡・土屋氏をあたえられ土屋昌続を名乗り、武田二十四将の一人にも数えられた名将である。信玄・勝頼の信頼厚く、二代に渡り仕えた。
三方ヶ原の合戦では、豪の者と知られる武田家十六将の一人である鳥居忠広と一騎打ちにて、これを討ち取る功績を上げている。
長篠の合戦にて、馬防柵を引き倒そうとした所、鉄砲の集中砲火を浴び討死した。
その後、土屋氏は昌続の弟・昌恒が家督を継ぎ、武田勝頼・最後の戦いである天目山の戦いでは、勝頼最後の時を稼ぐために、崖で藤蔓を手に巻き付け、片手にて千人の敵を切り伏せた。最後は勝頼の後を追い割腹。享年27であった。その壮絶な最期に敵方も賞賛を送り、褒め称えたと伝えられている。
信長公記には「弓を取り、矢をつがえては放ち、つがえては放ち、矢数が尽きるまで散々に射尽くして、屈強の武士多数を射倒した末、勝頼のあとを追って切腹した。
高名を後代に伝える、比類ない働きであった」と織田信長に言わしめた。
昌恒の妻と子の平三郎は駿河国(現・静岡県)の楞厳院(りょうごんいん)に逃げ込み、一命を取りとめた。
その後平三郎は、駿河国・清見寺へと預けられ、そして運命の出会いが待っていた。
鷹狩の途中、後の将軍・徳川家康が清見寺へと立ち寄り、手紙を書くために紙と硯を所望した。
その紙と硯を持ってきたのが平三郎である。
その立ち居振る舞いに目をとめた家康は、住職に尋ねた。
土屋昌恒の遺児と知った家康は、即座に平三郎を引き取り、後の二代将軍・秀忠の近習としたのである。
平三郎は徳川秀忠の「忠」の一字をもらい、「忠直」と名乗る。
土屋忠直は慶長7年(1602年)、上総国(現・千葉県)久留里藩2万石の大名となった。
その忠直の次男が初代土浦藩初代藩主である数直だ。
数直は幼き頃より三代将軍・徳川家光の近習となり、寛文5年(1665年)には「老中」に任じられ、他の老中と共に文治政治に取り組んでいる。
・武田流築城術
土屋氏は数直が嫡男・政直が継ぎ、天和2年(1682年)大河内松平家の松平信興が2万2千石にて土浦城に入る。
松平家臣には武田家軍師の山本勘助が子孫・山本菅助がおり、この菅助により土浦城は甲州流築城術によって改修されている。
その5年後、貞享4年(1687年)に6万5千石にて再び土屋政直が入城し、政直は「老中」、「老中首座」へと就任し、9万5千石の大名となった。
常陸国では水戸に次ぐ第二の都市へと繫栄した。
以来土浦藩は土屋家が11代(約200年間)にわたって治め明治維新に至っている。
・土浦城の縄張り
土浦城は輪郭式の縄張りだ。本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸と続き、各郭にて3重にも4重にも本丸を囲んだ。
更に各郭には水堀を巡らし、その姿は水に浮かぶ亀の甲羅のようであったとされる。
入口には甲州流の丸馬出しや、枡形がみられ敵の侵入を拒んでいる。
本丸を厳重に守る太鼓門は関東で唯一現存している櫓門だ。
二階には太鼓を置き、時を知らせたことから太鼓門と呼ばれるようになった。
本丸には書院造りの御殿が建てられており、畳の部分だけでも400畳の広さがあったことが分かっている。
また本丸隅には2基の櫓で守りを固める。
西尾氏が築いたとされる西櫓、東櫓である。
西櫓は昭和24年(1949年)キティ台風の被害を受け、解体を余儀なくされたが、平成4年(1992年)に保管されていた元の部材を用いて復元された。
東櫓の脇には本丸搦め手口を守る霞門がある。江戸時代から現存している貴重な門だ。
この門は格式の高い薬医門形式で建てられており、枡形を守る重要な門となっている。
二ノ丸にある旧前川口門は、武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」であったと云われている。
江戸時代末期、高麗門形式にて建てられ昭和56年(1981年)に現在の場所へ移築された。こちらも現存する貴重な建造物だ。
明治の火災にて本丸、東櫓など多くの建物が焼失し、市街化により現在は亀城公園として整備され、本丸や二の丸、一部の遺構が残っている。
土浦城と櫓門・霞門は県指定史跡に旧前川口門は市指定文化財に登録されており、その遺構の良好差から平成29年(2017年)には続100名城にも選出されている。
城データ
城名:土浦城、亀城
築城者:若泉三郎
主要城主:若泉氏、信太氏、菅谷氏、松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、大河内松平氏
主な遺構:太鼓門、霞門、旧前川口門、西櫓、東櫓(復元)、土塁、水堀
所在地:茨城県土浦市中央1丁目13
連絡先:029-826-1111(土浦市役所 商工観光課)
アクセス:常磐自動車道「土浦北IC」から車で約10分
JR土浦駅下車 土浦駅西口から徒歩約15分
駐車場:有り
指定文化財:県指定
続日本100名城
みどころ
・関東唯一の現存太鼓門(県指定史跡)
・薬医門形式で建てられた霞門(県指定史跡)
・旧前川口門(市指定文化財)
・復元された西櫓、東櫓
・枡形虎口
・土塁、水堀
他
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