鴫山城

南会津政治拠点

中世から近世城郭へ発展した山城

 

鴫山城は標高749mの愛宕山に築かれた山城で、陸奥国・南会津の政治の拠点となった。

この地は東北地方の南端に位置し、関東、越後、会津地方が隣接している交通の要所である。

現在も遺構は良好で、中世から近世城郭へ変貌を遂げた縄張りを確認できる。

それでは南会津の拠点となった鴫山城を御堪能あれ。

鴫山城

 

目次

①鴫山城の歴史
②変わる城主
③鴫山城の縄張り
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事

 

・鴫山城の歴史

鴫山城の築城年代は定かではないが、この地を治めた長沼氏によって築かれたと伝えられている。

長沼氏は下野国・長沼を本拠地とした小山氏の一族で、源頼朝からこの南会津を拝領したのが始まりだ。中世の会津は会津四家と呼ばれる蘆名氏、山内氏、河原田氏、そして長沼氏が割拠していた。

鴫山城

鴫山城

隣接する会津・蘆名氏とは対立し、度重なる戦を交えながらも共存するが、ついには蘆名氏が長沼氏、山内氏、河原田氏を支配下に置いた。



鴫山城

次第に米沢より独眼竜と称された伊達政宗が台頭し、会津に進攻する。

鴫山城当主・長沼盛秀は蘆名氏の後継者争い時、伊達派として政宗の弟・小十郎を推すも、佐竹派が勝利し遺恨を残す形となった。

奥州の覇者を決める「摺上原の戦い」にて伊達政宗が蘆名義広を破り、黒川城(後の会津若松城)を拠点とした。そして本格的に南会津攻略を開始するのである。

これによりかねてから伊達派であった長沼盛秀はいち早く伊達軍に降伏し、その傘下に入った。

「摺上原の戦い」詳しくはこちら

会津若松城(戦国編)・上に続く

 




 

鴫山城

鴫山城

天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥羽仕置きにて、政宗は会津黒川城から岩出山城へ転封され、長沼氏もこれに従い伊達家と岩出山へと移っている。

鴫山城

鴫山城

・変わる城主

政宗のあとには蒲生氏郷が会津92万石の領主となり、鴫山城には小倉左衛門尉が入る。

慶長3年(1598年)氏郷亡き後は、上杉景勝が会津120万石の領主となり、直江兼続が実弟・大国実頼が城代となっている。

この地を重要視した蒲生氏、上杉氏は鴫山城の大改修を行っており、対伊達・徳川の守りとして堅城へと造り上げた。

鴫山城

鴫山城

上杉氏が関ヶ原の合戦で敗北すると、慶長6年(1601年)には再び蒲生秀行が会津40万石の領主となり小倉左衛門尉、蒲生主計助が城代となった。



蒲生騒動後、寛永4年(1627年)には加藤嘉明が会津42万石の領主となり、このころには支城としての機能を失い、城から東に約200m程離れた現・南会津役場前に田島陣屋が築かれ政治の中心は陣屋に移っている。

鴫山城

・鴫山城の縄張り

鴫山城は「惣構えを備えた根小屋式山城」である。

愛宕山の頂上から続く尾根や谷間を巧みに利用し、山全体を土塁や竪堀、空堀で囲んだ「惣構え」を構えている。これだけでも一見の価値があろう。

鴫山城

鴫山城

この総構えを越えて、大手通を進むと、一段高くなった東西の曲輪には侍屋敷が配置してあった。

大手通の両脇に屋敷が配置してあり、敵を挟撃することが可能である。

 




 

鴫山城

鴫山城

侍屋敷を抜けると、城内へは深さ4m、幅14mはあろう空堀にて、敵の侵入を阻んでいる。

鴫山城

そして大門と呼ばれる大手門が現れる。

鴫山城

鴫山城

立派な石垣が築かれた大手門だ。おそらく櫓門があったことであろう。

大手門を抜けると、広大な削平地が広がる。

御平庭と呼ばれた城内の役所があった場所だ。鴫山城の三の丸にあたる。



鴫山城

三の丸より西側には一段高くなった曲輪があり、下千畳・上千畳と呼ばれる、二の丸・本丸が配置されている。

ここが城の中核部分となり、蒲生氏、上杉氏時代に城主、城代の館があったとされる。

鴫山城

鴫山城

鴫山城

昭和52年(1977年)から行われた発掘調査では、侍屋敷に4棟の礎石跡、1棟の掘立柱跡、下千畳にも礎石、石積み等、上千畳には門、礎石、庭園跡などが発見されている。

鴫山城

鴫山城

鴫山城

更に愛宕山を登ると、山複には御茶屋場と呼ばれる平削地があり、中世の頃の大手口に相当する場所であったとされている。

 




 

鴫山城

鴫山城

鴫山城

主水曲輪には階段状に平削地が続き、要所に野面積みの石垣もみられる。

鴫山城

鴫山城

鴫山城

山頂に近づくにつれチャートが剝き出しとなり防御を固める。

鴫山城

鴫山城

主水曲輪超え、山頂へ目指すと愛宕神社が見られる。ここが中世鴫山城の本丸にあたる場所だ。標高749mの当時の景色は最高であったであろう。



鴫山城

鴫山城

鴫山城

鴫山城は中世から近世へ変貌を遂げる中で、山麓部、山頂部と城郭が分かれ、山頂部を詰城、山麓部を内城、外郭に総構えと、三段階に分かれた根小屋式山城となっている。

根小屋とは日本中世の集落形態の一つで、館を中心として山や丘陵の麓に発達した集落のことである。いざというときは山頂部の詰城へと籠城し攻防が可能となる。

鴫山城

寛永4年(1627年)幕府の一国一城令により鴫山城は廃城となった。

城の脇には明治18年(1885年)8月に落成した擬洋風建築の旧南会津郡役所が引家され、昭和46年(1971年)4月福島県重要文化財に指定されている。

旧南会津郡役所

数々の遺構を残す鴫山城、昭和57年(1982年)には福島県史跡に指定され、当時の情景を今に伝えている。

鴫山城

鴫山城

鴫山城

 

城データ

城名:鴫山城、南山城

築城者:長沼義秀

主要城主:長沼氏、蒲生氏、上杉氏

主な遺構:石垣、土塁、空堀、竪堀、虎口、曲輪跡、櫓台跡

所在地:福島県南会津郡南会津町田島根小屋甲4240

連絡先:0241-62-3000(南会津町観光物産協会)

駐車場:無料駐車場有

アクセス:会津鉄道「会津田島駅」より徒歩約10分

     東北自動車道「白河IC」もしくは常磐自動車道「会津若松IC」から車で約60分

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みどころ

・中世と近世を併せ持つ山城城郭

・大門と呼ばれた大手門の石垣

・山城を囲う総構え

・敵の侵入を阻む二重堀

 他

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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