甲斐・新府中
武田家最後の城
本日は武田家最後の城・新府城を紹介したい。
新府城は天正10年(1582年)、武田勝頼によって築城された平山城だ。
八ヶ岳からの岩屑流が積り、東の塩川と西の釜無川とで浸食しできた高さ40mはあろう、七里岩台地の上に築かれた。城の東側は断崖絶壁となり、攻め込むことは不可能だ。
2017年には続日本100名城にも選定された。
それでは武田家最後の城となった新府城を御堪能あれ。
目次
①武田勝頼誕生
②勝頼猛進
③長篠の戦い
④新府城築城
⑤武田家滅亡
⑥城データ(所在地はこちら)
⑦みどころ
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・武田勝頼誕生
築城者は武田信玄の四男・武田四郎勝頼である。
母は諏訪頼重の娘で、名は湖衣姫。
諏訪家は代々諏訪大社の神氏の家系にて、諏訪地方を治めていた。
武田家と諏訪家は領地が隣接しており敵対関係にあったが、信玄の妹・寧々が正室として嫁いでおり、姻戚関係にあった。しかし信玄が父・信虎を追放し、家督を継ぐと諏訪氏との同盟は手切りとなる。
ついに信濃攻略に動いた信玄は、諏訪氏の分家である高遠頼継と連携し、武力を持って諏訪へ進攻、諏訪家当主・諏訪頼重を自刃に追い込んでいる。
諏訪惣領を我が物にと望んでいた高遠頼継は、所領の取り分について信玄と対立。
甲斐に攻め込んできた頼継を制圧し、諏訪・高遠を手中に収めている。
諏訪衆との強固な関係を築くため、信玄は諏訪頼重の娘・湖衣姫を側室に迎えた。
一説には湖衣姫は絶世の美女で、信玄のほうがゾッコンだったとか。
敵対した娘を娶ることに家中では反対意見が多かったが、信玄は反対を押し切り、湖衣姫を側室に迎えた。そして後の後継者・勝頼が生まれている。
勝頼は武田家当主としてではなく、諏訪家当主として育てられた。
名も武田家累代の通字である「信」の字を使わず、諏訪家方の通字である「頼」の字を与えられ、諏訪勝頼と名乗っている。
成長した勝頼は諏訪家の後継者として、高遠城城主となった。
だが運命のいたずらか、突如として武田家家督相続は四男の勝頼に巡ってきたのである。
勝頼には3人の兄がいた。しかし嫡男・義信は謀反のため自害し、次男・龍鳳は盲目だったため仏門に入り、三男はわずか10歳で他界。突如、四男・勝頼に巡って来たわけだ。
元亀4年(1573年)信玄の死後、勝頼は武田家第20代目当主となるのである。
勝頼、最大のライバルは誰であったであろうか。
武田家を滅ぼした織田信長・徳川家康もライバルであったことには違いない。
だが、勝頼の本当のライバルとは偉大な父・武田信玄であったのではないだろうか。
軍略・政略ともに父・信玄と比較され、悲運な将として現代に語り継がれている勝頼。
信玄が遺言にて、勝頼を嫡子と定めながらも、家督は勝頼の子・信勝に譲るとされていた。
勝頼は信勝が16歳になるまでの後見人として仮の当主であったのだ。
また信玄は武田家累代軍旗・風林火山の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗を使用してはならない。と命じた。
あくまでも諏訪勝頼として生きよ。との父の遺言であった。
偉大な信玄の死に武田家中は動揺し、最強軍団に綻びが生じ始めていた。
・勝頼猛進
そんな空気を払拭するように、勝頼は戦を求めた。
敵対していた織田・徳川連合軍に攻勢をかけるのである。
天正2年(1574年)2月、勝頼は美濃方面の織田領に進攻。
怒涛の勢いで明智城や飯羽間城を落城させる。
僅か1カ月半で18もの城や砦を落城させたのである。
6月には徳川領の遠江へ進攻。信玄でも落とせなかった、高天神城を落城させた。
その戦ぶりは信長・家康を震え上がらせた。
信長は上杉謙信に「勝頼は若輩ながら信玄の掟をよく守り、表裏の駆け引きにもすぐれており、恐るべき相手である」と書状を送っている。
信長・家康は勝頼を最大限に警戒しながら、信玄の死によって瓦解した、反信長包囲網を一つ一つと着々に滅ぼしていった。
室町幕府将軍・足利義昭を京から追放し、近江国の浅井氏・越前国の朝倉氏を滅ぼし、伊勢一向一揆を滅亡させた。
家康は信玄に奪われた旧領奪還に燃え、一度は武田に下った、奥平定能・定昌親子を調略し、長篠城を落城させた。
天正3年(1575年)4月、これに激怒した勝頼は奥平親子の討伐を決意。
1万5千の大軍で長篠城へ進攻し、5月には長篠城を取り囲んだ。
対する長篠城兵500はよく持ちこたえ家康・信長の援軍を待ちに待った。
・長篠の戦い
ついに5月18日、信長軍3万・家康軍8千、計3万8千の軍が長篠城手前の設楽原に着陣した。
対する勝頼は戦国最強と称された騎馬軍団1万5千にて、設楽原に進軍する。
最強軍団武田軍と新兵器の鉄砲を大量に導入した織田・徳川連合軍が対峙する。
宿敵ともいえる両軍の決戦がついに始まる。
天正3年(1575年)長篠の戦いだ。
この戦いが天下を分けた一戦となる。
織田・徳川連合軍は鉄砲3,000挺の火縄銃を用意、馬防柵を設け、布陣していた。
当時の火縄銃は、弾込め、点火、筒掃除と、熟練者が行っても15秒はかかるといわれており、1発目を外してしまうと、2発目を撃つ前にやられてしまうという欠点があった。
鉄砲はあくまでも主力武器では使えないとの常識であった。
しかし信長はその欠点を払拭する。
3人1組体制にて陣列を組み、1列目が発射している間に、後ろの2列が発射準備を行い、連続して射撃する「三段撃ち」に成功する。
武田四天王と呼ばれた山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らの重臣は、馬防柵を設け用意周到に準備を進めている信長を警戒し、ここで決するのは早期である。と勝頼に撤退を進言する。
しかし勝頼は「信長なにするものぞ」と重臣達の反対を押し切り、後方の長篠城警戒に3千を残し、そして1万2千にて、総突撃の命を下すのである。
「ダダダダンッ!」戦場は爆音で包まれた。
怒涛の勢いで突撃をしてくる武田軍に、織田・徳川連合軍は休みなく一斉射撃を行った。
猛攻撃を仕掛ける武田軍だが、ついにはその攻撃は信長には届かなかった。
勝頼のもとには次々と報が届く。
「山県三朗兵衛昌景様、討死」
「内藤修理亮昌秀様、討死」
「真田源太郎信綱様、討死」
「真田徳次郎昌輝様、討死」
「土屋右衛門昌次様、討死」
「原隼人佐昌胤様、討死」
「安中七郎三郎景繁様、討死」
「望月左衛門信永様、討死」
「馬場美濃守信春様、討死」
この戦いで武田四天王である、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、そして真田兄弟、原正胤など名立たる武将が討ち死。死者1万人以上と云われている。
勝頼は甲斐に敗走。
武田軍の完敗であった。
・新府城築城
躑躅ヶ崎館に戻った勝頼だが、中世式の館である躑躅ヶ崎館では大軍を防ぎきれないと判断、そして天正9年(1581年)新しい府中(本拠地)として山梨県韮山市に、新府城の築城を開始するのである。
縄張りは築城の名将として名高い、真田幸村の父・真田昌幸が行った。
新府城は東側に塩川、西側には釜無川が流れる天然の要害で、八ヶ岳からのびる高さ40m超える七里岩の断崖絶壁を巧みに利用し、高い土塁を築き、食い違い虎口、丸馬出や三日月堀など甲州流築城術の集大成の城である。
僅か1年も満たない期間での突貫工事で築城を進め、未完のまま躑躅ヶ崎館から新府城へ移ったと云われている。しかし甲府を捨ててのこの移転は、領国経営に混乱をもたらし、領民・家臣からの人心を失うこととなり、勝頼は完全に孤立してしまった。
・武田家滅亡
天正10年(1582年)遂に織田・徳川連合軍が武田討伐を開始。
隣接している相模の北条氏政も勝頼を攻め立てた。
相次ぐ出兵や、築城に掛かった費用のため、過度な年貢や労働を強いられていた農民、家臣達の不満は爆発し、裏切りが続出。一門でさえも勝頼を見限った。
義弟である木曽義昌が信長に内通し謀反を起こすと、信長・家康連合軍は武田領になだれ込む。
駿河では武田一族の穴山梅雪が家康に内通し謀反。
抵抗もなく数々の城が落城した。
信濃でも次々と城が落とされ、最後まで抵抗したのは高遠城の信玄の五男・仁科盛信だけであった。3千の兵にて高遠城へ籠城。武田討伐・総大将の織田信忠は10倍の3万の兵にて高遠城へ総攻撃を仕掛け、盛信は虚しく散った。
相次ぐ味方の謀反により、新府城では戦えないと判断した勝頼は、真田昌幸が進言する岩櫃城か、小山田信茂の岩殿城に引くか迷うも、小山田の説得により甲斐の岩殿城へ撤退する事を決意。
自ら新府城に火をかけ、岩殿城へ向かう。
新府城はわずか68日の運命であった。
しかし頼りとした小山田信茂も謀反、織田家と通じていた。死期を悟った勝頼は、天目山にて嫡子・信勝、婦人と共に自害。ここに戦国最強と称された武田家は滅亡するのである。
「人は城 人は石垣」とは武田信玄の名言だ。
この言葉のごとく、いくら強固の城を築いたとしても守る人がいなければ意味をなさない。
まさか自分の子が体現するとは夢にも思わなかったことであろう。
勝頼は、信長・家康に恐れられ、東美濃・遠江・西上野・北信濃などを手中に治めて、武田家最高領土を広げている。間違えなく名将であった。
武田家最後の居城となった新府城では、現在も発掘調査が行われており、丸馬出や三日月堀など数多くの遺構を確認することができる。
城データ
城名:新府城
築城者:武田勝頼
主要城主:武田氏
主な遺構:土塁、空堀、三日月堀、丸馬出、虎口
所在地:山梨県韮崎市中田町 中条字城山
駐車場:無料駐車場有
連絡先:0551-22-1991(韮崎市観光協会)
アクセス:中央自動車道韮崎ICから約20分 JR中央線新府駅から徒歩約15分
指定文化財:国指定
続・日本100名城
みどころ
・七里岩を利用した縄張り
・丸馬出や三日月堀などの甲州流築城術
・土塁、堀、食い違い虎口
・東出構、西出構、擂鉢型井戸
他
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