螺旋状に配置された曲輪群
春香る・法螺貝城
本日は、法螺貝城の別名を持つ皆川城を紹介しよう。
山々に囲まれた県道75号線を佐野方面より車で進むと、法螺貝に似た形の山が確認できる。皆川城だ。
まるで法螺貝のような山の形を利用し、段々と螺旋状に曲輪を配置、横堀・竪堀・水堀を配置、敵の侵入を防いでいる。
それでは全国でも珍しい法螺貝城をご堪能あれ。
目次
①皆川氏の歴史
②小田原征伐
③関ヶ原の合戦とその後
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・皆川氏の歴史
皆川城は標高147mの城山に築かれた中世城郭だ。
頂上の本丸からの展望は良好で栃木方面、佐野方面と一望できる。
皆川氏は藤原秀郷の末裔で長沼秀宗が皆川を名乗り、この地に城を築いたのが始まりとされているが、築城者、築城時期等、詳しいことは分かっていない。
近隣大名の宇都宮氏、壬生氏、佐野氏、佐竹氏、結城氏などと攻防を繰り返しながら現・栃木市を支配した。
戦国末期、小田原の後北条氏の関東侵略により、北条氏と対立が深まり、敵対していた佐竹氏、結城氏、佐野氏、宇都宮氏と連合し反北条軍を結成。北条氏と争った。
皆川氏最高勢力を誇ったのが、15代当主・広照だ。
北条氏は皆川広照を討伐するために、皆川城から約20kmの藤岡城まで大軍を率いて侵攻。広照は大平山に陣を敷き、対抗した。北条軍は大軍で大平山を囲み火を放った。たちまち山は炎上し、大平山神社や多くの神仏が焼け落ちたと云う。
余談ではあるが、皆川軍が陣を敷いた大平山には、永禄11年(1568年)関東管領となった越後国・上杉謙信がこの山に登り、太平山上から関東平野を見渡した。あまりの広さに目を見張ったとの言い伝えがあり、その場所には「謙信平」との名がついている。現在も東京ビル群、スカイツリー、広大な関東平野が見渡せる。
たまらず広照は後退。大平山北の草倉山に陣を敷く。
草倉山は皆川城に一番近い山であり、皆川勢は背水の陣にて戦に望んだ。
北条氏は大平山に陣を敷き、草倉山を攻め立てた。
対し広照はゲリラ戦を展開、北条軍相手に優勢に戦を進る。
約100日間も戦が続いた。
皆川勢は多くの家臣を失い、とうとう広照も死を覚悟した。
これを見かねた徳川家康が仲介に入り、北条軍に下るように広照を説得。
遂には北条氏の傘下に入る。
北条氏は謀反をさせないため、一門の娘を広照に嫁がせている。
後の常陸府中藩2代藩主・隆庸を生んでいる。
その後、皆川氏は北条軍の先発として宇都宮氏、佐竹氏、佐野氏と争った。
・小田原征伐
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原討伐時、広照は北条氏に従い小田原城に籠城。
しかし落城直前に懇意にしていた家康の陣所に駆け込み、秀吉に謁見を許されている。
家康の執り成しにより秀吉軍門に下り、所領を安堵された。
翌年、皆川城より7Kmにある平城の栃木城を築城し、皆川城は廃城となった。
・関ヶ原の合戦とその後
秀吉死後の慶長5年(1600年)、会津・上杉討伐では秀忠に同行し宇都宮まで兵を進めた、大田原城では上杉景勝の南下を防いだ。関ヶ原の合戦では佐竹義宣を牽制し、広照の子・隆庸は秀忠に従軍し、信州・上田城を攻めている。
慶長8年(1603年)には家康6男の松平忠輝(のちの高田62万石城主)の養育係に抜擢。
忠輝の御附家老として信州飯山へ4万石を加増、本領と合わせ7万5千石の大名となり皆川氏最大勢力を誇った。
忠輝は奥州・伊達政宗の娘、五郎八姫を娶り、将来を有望されるが、幼いころからの粗暴が改まらず遂には改易されてしまう。
広照も忠輝の粗暴を家康に訴えるも、その責を問われ皆川氏も改易となる。
改易後は京都の智積院にて謹慎。
大阪夏の陣では子・隆庸と共に徳川方に参戦。
元和9年(1623年)に赦免され、常陸国・新治郡府中に1万石を与えられた。
寛永2年(1625年)に隆庸に家督を譲り広照は隠居した。
現在、皆川城は良好に整備され、4月になると曲輪に桜が満開に咲き香り、綺麗な中世の城を堪能できる。
廃城に伴い、栃木県大平町にある大中寺に皆川城の搦め手門が移築されている。
城データ
城名:皆川城、法螺貝城
築城者:皆川秀宗
主要城主:皆川氏
主な遺構:土塁、空堀、竪堀、井戸
所在地:栃木県栃木市皆川城内町628
駐車場:無料駐車場有
連絡先:0282-25-2356(栃木市観光協会)
アクセス:東北自動車道 栃木I.Cから車で約10分
指定文化財:市指定
みどころ
・全国でも珍しい法螺貝城と呼ばれる縄張り
・段々と配置された曲輪群
・横堀、土塁、幅9m、深さ4mもある竪堀
・本丸から見る眺望
・桜の時期には満開の桜が咲き誇る
他
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