戦国随一の山城
軍神・上杉謙信の居城
戦国最強の武将とは、と問われて誰を思い浮かべるであろうか。
多くの人がこの武将の名を候補にあげることであろう。
その名は上杉謙信。
戦国時代に合って「義」の旗を掲げ私利私欲のための戦は起こさなかった稀有な存在、
謙信。毘沙門天の化身とも恐れられ、武田信玄と繰り広げられた川中島の合戦は後世、戦の教科書となった。
また手取川の戦いでは織田軍を相手に大勝。
謙信は「案外に手弱の様体(織田軍は案外弱い)」と述べたという。
そんな“越後の龍”とも恐れられた謙信が居城とした春日山城はいかなる城であったのか。
戦国随一ともいわれた春日山城を御堪能あれ。
目次
①景虎・越後国主へ
②春日山城の縄張り
③軍神・上杉謙信
④城データ(所在地はこちら)
⑤みどころ
⑥おすすめ記事
・景虎・越後国主へ
春日山城は上越市中部に位置する標高182mの春日山に築かれた。
城域は四方4kmに及ぶ広大な山城で、本丸からの眺望は素晴らしく頸城平野(くびきへいや)や日本海をも見渡せる。
築城年数等の詳しいことはわかっておらず、本格的な山城として整備されたのが1500年頃、謙信の父・長尾為景が越後の実権を握ってからと思われる。
元々、上杉謙信は名を長尾景虎と云い、長尾家は室町幕府から任された越後守護・上杉定実を補佐する守護代の家系であった。謙信の父・長尾為景は強大な軍事力を背景に越後最大の実力者となったが、従わない国衆も多く越後統一は果たせなかった。
天正5年(1536年)為景は隠居をし、嫡男・晴景が家督を継いだ。
四男である幼少名・虎千代(後の謙信)は城下の林泉寺に預けられ、住職・天室光育に教育される。
この事がきっかけに義に熱い上杉謙信が形成されていったのであろう。
兄の晴景は病弱で越後をまとめる才覚がなかった。
天文12年(1543年)虎千代は13歳で元服。
名を長尾景虎と改め、栃尾城へ入り、兄に代わり数々の合戦で勝利した。
合戦に勝利する度、家臣団の中で晴景に代わり景虎(謙信)を当主へとの動きが盛んになっていく。
そしてついに守護・上杉定実の調停のもと、景虎に家督を譲り晴景は隠居。19歳にて長尾家の当主へと押し上げられた景虎は、春日山城へと入った。
その後、定実が後継者を残さずに病死してしまう。景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護代行を命じられ、正式に越後国主と認められることとなった。
そして反景虎派を鎮圧し、22歳にて越後統一を成し遂げたのである。
越後統一を成し遂げた謙信は春日山城を生涯の拠点とし、拡張整備を行っていった。
この春日山城から川中島や関東など数々の合戦へ繰り出して行ったのである。
・春日山城の縄張り
さて現在の春日山城には、本丸をめざす登城口が3か所ある。
大手道口、春日山神社口、三の丸口(景虎屋敷)からの3か所で、筆者は春日山神社から本丸を目指すこととした。
堀切や土塁、虎口、千貫門跡と跡地だが綺麗に整備がされており登城しやすい。
通常、山城はその利便性から生活の場を山の麓へ作り政事を行うものだが、謙信は護摩堂や毘沙門堂を造り山頂を生活の場としていた。
現在は、謙信の生活の一部を感じることができる毘沙門堂が復元されている。
日夜、天下平定を祈り続けていたのであろうか。
この城は山全体を大小の曲輪で構築されており、景勝屋敷、直江屋敷など重臣達の屋敷も曲輪に配置し、防御となした。また本丸を拠点に北と南で巨大な堀切を設け、本丸がある本城地区、家臣達の屋敷が連なる大手口側を南城地区と区分けした縄張りとなっている。
後に謙信死後、後継者争い「御館の乱」が勃発する。
謙信の姉・仙桃院が子の景勝と、北条氏から養子になった景虎との間で争いが起こった戦である。景勝は本丸に入り、景虎は三の丸にて籠城。この春日山城の場内で約2か月にわたる交戦状態が続いた。
景虎は景勝に攻められ、御館(かつて越後の府中であった館)まで引く事になるが、約2か月も城内で戦闘が繰り返されたのは驚愕だ。本丸を抑えた景勝が有利に戦ったことは、縄張りの優秀さを証明しているだろう。
山頂部には掘立柱の跡が判明し、重層の天守があったとされている。
越後内乱の恐れや、武田信玄からの攻撃の脅威にさらされていた春日山城は、常に籠城戦を想定し拡張され、井戸曲輪には山城とは思えない直径8mはあろう井戸が今も水を蓄えている。
・軍神・上杉謙信
軍の神と称された謙信。
あの有名な「川中島の合戦」では宿敵・武田信玄の啄木鳥戦法をその戦の嗅覚により見破り大打撃を与え、あの信長軍でさえ歯が立たなかった。
武田信玄が隣国・駿河(現静岡県)今川氏真、相模(現神奈川県)北条氏康より塩の流通を止められたことがあった。甲斐(現山梨県)には海がなく塩が取れない。当時の塩は貴重な物で、塩がなければ生きてはいけなかった。そんな苦境の信玄に、手を差し伸べたのが謙信だった。
「信玄とは戦で決着をつける。」と謙信は宿敵・信玄に塩を送ったのである。
このことが「敵に塩を送る」の語源になっている。
生涯70以上の合戦を行い、領国経営にも非凡な才能を発揮した謙信、この春日山城で倒れ49年の生涯を閉じた。死因は酒好きが高じた脳卒中と云われている。
謙信・辞世の句は
「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」
生涯49年一睡の夢のような時間であった。一生の栄華は一杯の酒のようなものだ。
戦国を駆け抜けた謙信、約30年間人生を共にした城・春日山城。
本丸に立つと、私利私欲を捨て天下平定を追い求めた謙信の心を感じる事ができる。
ぜひ戦国随一の山城を堪能してみてはいかがであろうか。
城データ
城名:春日山城
築城者:長尾為景、上杉謙信
主要城主:長尾氏、上杉氏、堀氏
主な遺構:土塁、堀切、井戸曲輪、曲輪跡
所在地:新潟県上越市中屋敷他
連絡先:025-544-3728(春日山城ものがたり館)
アクセス:えちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン「春日山駅」より徒歩約40分 (春日山神社・謙信公銅像まで)
頸城バス「中屋敷」下車徒歩約20分
頸城バス「春日山荘前」下車徒歩約15分
※いずれも春日山神社・謙信公銅像まで
北陸自動車道「上越IC」から約15分
上信越自動車道「上越高田IC」から約20分
日本100名城
国指定
無料駐車場有
みどころ
・土塁、堀切
・200を超える日本最多の曲輪群
・現在も湛える大井戸
・謙信も眺めていたであろう日本海と頸城平野の眺望
他
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