米沢城・下

米沢城・上より

 

米沢城

 

目次

①上杉氏入封
②北の関ヶ原
③米沢藩
④民の父母・上杉鷹山
⑤城データ(所在地はこちら)
⑥みどころ
⑦おすすめ記事

 

・上杉氏入封

豊臣秀吉の命にて、会津には越後より上杉景勝が120万石にて入封。

豊臣政権五大老の一人にも任命され、伊達・徳川の抑えとして抜擢される。米沢には豊臣政権からおぼえめでたい重臣・直江兼続が30万石にて治めている。

直江兼続は幼少のころより景勝に仕え、知勇兼備の武将としても知られている。その才は軍神・上杉謙信も認め、自ら教育を行っているほどである。秀吉から直々に30万石を賜ったともされていて、重臣とはいえ、先ほどの蒲生家と比べても破格の待遇である。もちろん米沢単独では6万石とされ与力を合わせ30万石ということになるが、それにしても一国の大名よりも多い石高である。いかに秀吉がその実力を買っていたかが窺える。

現在の米沢城の町割りはこの直江兼続が行っており、以後272年間続く、上杉氏の統治が始まるのである。

兼続は米沢の経済基盤を確保するため、青苧、漆、綿、紅花などの栽培を奨励し、これらを米沢の特産物として全国に流通し、大いに財政に寄与することとなった。

現在も国内有数の織物産地として色鮮やかな米沢織が伝統工芸品として受け継がれている。

米沢城

米沢城

慶長3年(1598年)5月、太閤・豊臣秀吉は病に伏せるようになり死を悟った秀吉は、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元らの五大老及び五奉行を呼び、遺言状を出し豊臣政権への臣従を誓う起請文を提出させる。

後継者の秀吉の嫡男・秀頼はわずか5歳。天下を束ねられるわけなく、側近たちの力が不可欠だったのだ。8月にも五大老に同じ遺言状を出し再度、臣従を誓わせるが、同月18日についに太閤・秀吉は逝去。

 

 

・北の関ヶ原

慶長5年(1600年)7月事態は起こる。

打倒・豊臣政権を目論む徳川家康が、「景勝に異心あり」と謀反の疑いをかけ上洛し釈明を要求してきたのである。家康からの弾劾状を受け取った景勝はこれに真っ向から迎え撃つ。

交渉役の直江兼続は各糾弾をことごとく論破、家康の要求をはねつけた上に、挑戦状をしたためた。これがかの有名な「直江状」である。これを受け取った家康は激怒。各諸将に出陣の命を出し、上杉討伐の兵を起すのである。

米沢城

家康軍が下野小山(栃木県小山市)に入ったところで、近江(滋賀県)の石田三成が挙兵し、天下分け目の関ヶ原の合戦が幕を開けるのである。

会津の上杉氏は、伊達氏、最上氏、堀氏、蒲生氏など三方の敵に囲まれ、米沢城の直江兼続は最上攻略にあたった。

最上義光の山形城まで約50km、兼続を総大将とする2万4千の兵は最上領の城をことごとく撃破していく。

そして山形城まで約10kmの長谷堂城まで攻めかかるが、堅城・長谷堂城はなかなか落ちない。そこに、西軍敗戦の報が届くのである。

兼続は急ぎ兵をまとめ、米沢への撤退を開始。最上軍の激しい追撃を受けるが、兼続自らが指揮し、2万の大軍を無事米沢へ撤退させた。あまりの見事なこの撤退戦は後世までの語り草となっており、敵の最上義光も徳川家康も称賛したとの記録が残っている。

また天下の傾奇者・前田慶次も景勝、兼続を崇拝し米沢へ仕官しており、「北の関ヶ原」と呼ばれたこの戦で、殿を務めるなど猛将ぶりが伝わっている。

米沢城

米沢城

関ヶ原の合戦は東軍の大勝利に終わり、西軍に付いた景勝は会津120万石から米沢30万石に減俸。

この時の景勝の心情を「上杉家年譜」には、

「武運ノ衰運今ニ於テハ驚クベキニ非ズ」とただ一行、記しているだけである。

米沢城

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・米沢藩

その後、景勝が米沢藩初代藩主となり、定勝、綱勝と続いたが、綱勝が跡取り不在のまま26歳の若さで病死したため、綱勝の正室・媛姫の父、会津藩藩主・保科正之が仲介に入り、吉良家より当時2歳の綱憲を養子に貰い断絶は免れた。当時、跡取り不在の場合はお家断絶である。

断絶は免れたものの減俸は避けられず、信夫郡と伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収され、置賜郡内(現米沢市、南陽市、長井市、小国町、白鷹町、飯豊町、川西町)の15万石に減俸された。

 

 

米沢城

・民の父母・上杉鷹山

時は経ち、8代藩主・重定にはまだ男子がおらず、遠縁の日向国(宮崎県)高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男・松三郎を養子として、10歳にて幸姫と結婚させた。

17歳にて名を治憲(以下、鷹山)と改め、明和4年(1767年)米沢藩9代藩主となる。

鷹山が藩主を引き継いだ時には、度重なる飢饉と政治腐敗により極端な財政難に陥っており、莫大な借金もありその額20万両。現在の金額で約100億円以上もあったとされている。まさに破綻寸前の藩であった。

若き藩主は、春日神社・白子神社に「誓詞」を奉納、「民の父母」になると、民のための政治を理念とし、その強い思いで米沢藩の立て直しを決意するのである。

米沢城

鷹山は藩政改革を決意し、大倹約を実施。自らの生活費も8分の1に大幅に減らし、奥中改革も断行。

家中に大倹約令を発行し倹約を求めた。

しかし格式高い上杉家の家臣からは多くの反発を受け、財政改革には並々ならぬ努力があった。

自ら米沢藩中を視察。そこには荒れ果てた田畑、貧しさと苦しさにあえぐ民の姿があった。

その姿を見た鷹山は家中達の反発もよそに、自ら鍬を持ち一心不乱に畑を耕し始めたのである。

やがて鷹山は農地改革案を発表。武士自らが農地開拓を行うよう発表したのである。

鷹山自らの行動に家臣達は心動かされ、農地改革、治水工事も武士が行い、直江兼続から続く、青苧、漆、綿、紅花、また桑の栽培、養蚕も奨励、家中の女中に織物を教え、米沢織が発展し、笹野一刀彫など名産・伝統品産業を根付かせていったのである。

現在、日本三大和牛の一つと称される米沢牛も、鷹山が開校した興譲館にチャールス・ヘンリー・ダラス氏が訪れ、当時、動物を食べないとされていた米沢藩で故郷を懐かしみ、牛肉を食べたのが米沢牛の始まりとされている。

米沢城

米沢城

天明2年(1782年)日本最大の飢饉・天明の大飢饉が起こる。

東北地方を中心に餓死者が続出したのである。この状況の中、幕府から参勤交代の命が下る。

「今、藩を離れては多くの民を苦しめることになる」と、35歳の若さで隠居。

家督を8代藩主・重定の実子、治広に譲り、鷹山は藩政改革に専念する。米沢に残った鷹山は城に蓄えてあった米を家臣・農民に分け隔てなく分け与え、自らも少量の粥にて過ごした。この飢饉にて他藩は数万の餓死者を出す中、米沢藩には一人も餓死者を出さなかったと云う。

米沢城

米沢城

鷹山は「伝国の辞」として自らが追及した藩主像を三箇条にまとめ、領民のための政治を行うよう、代々の藩主にその精神は受け継がれていった。

文政5年(1822年)鷹山死去。翌年には米沢藩の借金は全て返済され、赤字は解消されたのである。

 

 

後に元アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは最も尊敬する日本人はと聞かれ

「ウエスギ・ヨウザン」と答えている。

その思想は名君として全世界へと影響を与え、その尊敬を受けている。

米沢城

最後に17歳の鷹山が藩主となった時に詠んだ和歌を紹介しよう。

受け継いで    

  国の司の     

    身となれば  

 忘るまじきは     

     民の父母

数々の名将たちが過ごした米沢。

名将たちの思いに馳せながら米沢城を堪能してみてはいかがであろうか。

米沢城

米沢城

 

城データ

城名:米沢城、舞鶴城、松ヶ岬城

築城者:大江時広

主要城主:長井氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏

主な遺構:土塁、水堀

所在地:山形県米沢市丸の内1丁目

連絡先:0238-22-3189(上杉神社社務所)

アクセス:米沢駅よりバスまたはタクシーで約10分      

     東北中央自動車道 米沢北ICより約15分

無料駐車場あり

続・日本100名城

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みどころ

・土塁、水堀

・美しい回字型輪郭式城郭

・本丸跡にある軍神・上杉謙信を祀る上杉神社

・米沢城二の丸跡に造られた米沢市上杉博物館

・上杉伯爵邸

 

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1983年2月生まれ 戦国写真家

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