天下布武
信長の天下取りはここから始まった
「天下布武」
織田信長はこの言葉を掲げ、ついに天下統一へと動き出した。
この言葉が生まれた場所こそ、今回紹介する岐阜城である。
永禄10年(1567年)信長はこの地を平定し、名も「井ノ口」から「岐阜」と改名した。
そして天下統一の本拠地として、居城を構えたのである。
標高329mの金華山山頂には3重4階の天守がそびえ立ち、その天守から見える景色は格別で、北アルプス、中央アルプス、濃尾平野、遠くは伊勢湾まで見渡せ、その絶景はまるで天下を手中に治めたと思えるほどである。
この絶景を京の公家・山科言継は「剣難の風景、言語に説くべからず」と漏らしたと云われる。
数々の城を構えた信長。結果的に最も長く居城となった岐阜城。
野望に燃える信長公の居城を御堪能あれ。
目次
①稲葉山城の誕生
②道三と信長
③道三の死
④半兵衛のクーデター
⑤地上の楽園・岐阜城
⑥本能寺の変とその後
⑦城データ(所在地はこちら)
⑧みどころ
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・稲葉山城の誕生
岐阜城は健仁元年(1201年)鎌倉幕府の御家人・二階堂行政が京の抑えとして、当時稲葉山と呼ばれた金華山に砦を築いたが始まりだ。
二階堂氏が没落し廃城となっていたが、戦国三大梟雄の一人・斎藤道三によって城として整備され、その名を稲葉山城として、美濃を支配した斎藤氏三代の居城となる。
金華山は山裾を長良川が三方からえぐるように流れており、ほぼ垂直に山が立ち上がる。その峻険な山の全体が要害となし、令和3年(2021年)の発掘調査では道三時代に既に石垣が築かれていたことが判明。
最先端の築城技術を駆使した、難攻不落の山城と称されている。
・道三と信長
道山は隣国・尾張の織田信秀(信長の父)と敵対に関係にあり、稲葉山城を大軍で攻められるが、籠城し応戦。織田軍が撤退したところを追撃し、壊滅寸前まで追いつめている(加納口の戦い)。
天文17年(1548年)、道三は自身の愛娘である帰蝶を織田信長に嫁がせ織田氏と和睦する。
信長と帰蝶は子宝に恵まれなかったものの、終生仲睦まじかったと伝えられている。
帰蝶の父である斎藤道三とも不思議な縁で結ばれていて、実の父子よりも絆が強く、道三は信長を認め、自身の夢を信長に託している。また信長も道三を手本とし、城普請や町割りなどを行いついには天下に覇を唱えている。
その有名なエピソードといえば「聖徳治の会見」であろう。
天文22年(1553年)、道三と信長が聖徳寺にて初めて会見を行う事となった。
道三は信長が噂通りの「うつけ者」であれば亡き者にしようと企んだのだ。
会見前にうつけ姿を一目見ようと、民家に隠れ、信長の行列を覗きみていた。
信長隊を見た道三は驚嘆した、
その軍勢は三間半(約6.4m)の朱里槍隊500人、鉄砲隊300人と、規格外の軍勢を率いていたからである。当時の長槍の長さは一間半(約2.7m)が主流で、鉄砲も非常に高価で50挺あれば多いといわれていた時代である。
しかし当の信長を見ると、馬上で野菜を頬張り、髪は茶筅髷、腰には瓢箪をぶら下げ、上半身裸で、太刀脇差をわら縄で結び、さらに火縄銃も持ち歩いていた。
評判通りの「うつけ者」の姿だ。
その姿を見て道三は大いに落胆した事であろう。
道三は聖徳寺に先回りし、800人もの家臣達に正装させ、うつけ姿の信長を嘲笑してやろうと待ち構えていた。 そして信長が到着、
その姿をみてまたもや道三は驚愕する。
先ほどみたうつけ者の姿はそこになく、一変、正装した凛々しい若武者が堂々と現れたのである。 道三を紹介された信長は、一言、「で、あるか」と答えただけであったと云われている。
無事に会見は終了し、帰り際に家臣が「信長は評判通りのうつけでしたな」と漏らすと、道三は、「無念だがわしの息子らは、そのうつけの下につくことになるだろう」と信長の器量、そして軍事力を認めたと云われている。
その後、道三は信長への支援を惜しまなかった。
また亡くなる前日、信長に美濃を譲るとの遺言状をも書き残している。死期を悟った道三は実の息子ではなく、信長に後事を託したとされている。
・道三の死
天文23年(1554年)会見後間もなく斎藤道三は嫡男・義龍に家督を譲り、鷺山城に隠居。
しかし嫡男・義龍との仲は悪く、義龍を廃嫡し、次男もしくは三男に家督を譲ろうと画策していた。
だが義龍はその策に気づき、弟達を殺害してしまう。そして1万7千もの兵で挙兵する。
対する道三も2千8百の兵にて長良川を挟みにて迎い討つ(長良川の戦い)。
報を受けた信長も急ぎ援軍を出すが間に合わず、道三はこの戦いで討死している。
その後、織田氏と斎藤氏との同盟は破綻し、信長は何度か美濃攻略を試みるも、その度に義龍に撃退されている。
永禄4年(1561年)、35歳の若さで義龍が病死。当主となった義龍の嫡子・龍興は未だ14歳。信長は本格的に美濃攻略を開始。森部の戦いにて斎藤軍を撃破し、稲葉山城まで攻め込むが堅城・稲葉山城は落ちず撤退を余儀なくされている。
永禄6年(1563年)の美濃攻めでは斎藤家家臣・竹中重治(半兵衛)の戦術に翻弄され敗北している。
・半兵衛のクーデター
しかしこの勝利によって驕った当主・斎藤龍興は酒色に溺れ、一部の側近だけを寵愛し悪政を行うようになる。そして永禄7年(1564年)、前代未聞の事件が起きる。
斎藤家家臣・竹中重治がたった16人にて稲葉山城を乗っ取ってしまったのである。
重治は弟の竹中久作を見舞いに来たと口実を設け、16人にて稲葉山城に入ると、あっという間に稲葉山城を占拠してしまった。
かねてから待機していた義父・安藤守就と連携を取り、2千の兵にて城を囲むと、悪政を強いていた重臣達を討ち、城主の龍興を追放。
クーデターは成功する。
信長は重治に美濃半国を与えるかわりに稲葉山城を譲渡するよう促すも、重治はこれを拒否。クーデターは龍興へ戒め諭すために行ったものであり、半年後、稲葉山城は龍興に返還された。
その後、重治は隠棲生活を送っている。
この事件をきっかけに斎藤氏側に内応者が続出する。
極めつけは美濃三人衆と呼ばれた稲葉良通・氏家直元・安藤守就の3人が信長に内応。
織田軍は3人からの人質が届く前に、城下町を焼き稲葉山城を取り囲んだ。 その素早い動きに龍興は反応できず、たまらず城を脱出、長良川を渡って伊勢長島に逃亡した。
永禄10年(1567年)ついに斎藤氏は滅亡したのである。
稲葉山城に入った信長は、城や城下町を整備。
道三を手本とし、町割りを行い、活気ある城下町にするため課税を免除、「楽市楽座」を設け、経済を活性化させた。豊かな経済をもとに兵農分離を実施。更に軍事力を強化した。
そして中国の故事にあった周の武王が岐山によって国をまとめたことから、井ノ口から「岐阜」と名を改め、稲葉山城から「岐阜城」と改名し、天下布武の言葉を掲げこの地から天下統一へと動き出したのである。
・地上の楽園・岐阜城
信長の岐阜城には2つの天守があったとされる。
金華山山頂部にそびえる天守と、もう一つは麓の居住地にあげられた4階建ての天守である。
当時の様子を伝えている記述に、宣教師ルイス・フロイスの書簡がある。
永禄12年(1569年)京では伴天連(バテレン)追放が発せられ、救いを求めフロイスが岐阜城を訪れた。フロイスは「ポルトガルやインド、日本の他の地域でも見てきた宮殿や居館の中でも精巧で、かつ豪華であったとされ、館の外側にはとても大きな石垣が積まれ、入り口には儀礼や演劇を行う屋敷があり、庭が5つ、6つあり、魚が泳ぎまわっていた。町側にも山側にも見晴台があり、3、4階の見晴台からは町屋が一望できた。」と記述している。「地上の楽園」とも称している。
岐阜城は山全体がチャートという硬い岩盤で出来ており、天然の要害であった。
さらに山の麓では綺麗なチャートの褶曲がみられ、見るものを圧倒する。
信長はこのチャートの褶曲を活かし、人工的に滝を流し、池を造り、庭園を築き、金箔瓦を使用した壮麗な居館を建てた。ではなぜ信長はこれほど豪華な館や庭園を造り上げたのか。
それは戦う城から魅せる城へ、岐阜城は信長の権威を象徴する城であったのだ。
その居館は「迎賓館」として利用され、宣教師ルイス・フロイスや公家・山科言継、武田家使者・秋山虎繁、堺の商人・津田宗久など、さまざまな人が訪れ、信長の権威やそのおもてなしに感動、その様子を書簡や日記などに書き残している。
この思想は安土城にも引き継がれ信長の天下の象徴となっていく。
山頂部の御殿は道三時代の物をそのまま利用したと伝えられている。
信長は更に要所に石垣を築き、谷を石垣で埋め、回廊を築き、木を伐採し、チャートをむき出しにした巨大要塞へと魅せたのである。
山麓と山頂部分での二元構造を維持しながら、魅せる城は国内初である。
・本能寺の変とその後
信長が美濃へ入った1年後の永禄11年7月(1568年)、明智光秀を通し、後の第14代将軍・足利義昭と謁見。信長軍は義昭を擁し、ついに上洛を果たす。
天正3年(1575年)には嫡男・信忠に家督と岐阜城を譲り、天正7年(1579年)に安土城が完成。本拠地を安土へと移している。
そしてわずか3年後の天正10年(1582年)本能寺の変にて信長・信忠は討たれてしまうのである。
本能寺の変後はめまぐるしく城主が変わっていく。
織田家臣・斎藤利堯が城主不在となった岐阜城を乗っ取り、明智光秀が山﨑の合戦にて豊臣秀吉に敗れると、信長の三男・織田信孝に降伏。清州会議にて信忠の嫡子・三法師の岐阜城城主となり後見として、信孝も岐阜へ入る。
天正11年(1583年)賤ケ岳の戦いにて柴田勝家に付いた信孝は、信長の次男・信雄に降伏し、切腹。信長の乳母の子、池田恒興が嫡子・池田元助が岐阜城主となる。
天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いにて徳川家康に池田恒興・元助は討たれ、恒興が次男・池田輝政が城主となる。
天正18年(1590年)小田原討伐の恩賞により輝政は三河15万2千石に加増、吉田城城主となる。
その後、豊臣秀勝が岐阜城主となるが、朝鮮出兵時に24歳の若さで病死。
文禄元年(1592年)に三法師こと織田秀信が城主へと返り咲き、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、福島正則、池田輝政に攻められ落城。
関ヶ原合戦後、あまりに峻険な岐阜城は再利用を恐れ廃城となり、家康の命にて新たに加納城を築城。岐阜城天守や居館は加納城へと移された。
加納城御三階櫓は享保13年(1728年)焼失している。
現在の岐阜城天守は昭和31年(1956年)に復元され、高さ17.7mの3層4階建ての鉄筋コンクリート造り、館内は資料展示室と展望室となっており、言語に尽くせぬ絶景が広がる。また天守台石垣は信長時代の石垣とされ、野面積みの荒々しさが当時の情景を伝えている。
平成23年(2011年)に金華山一帯が岐阜城跡として国史跡に認定され、日本遺産・信長公のおもてなしが息づく戦国城下町として、多くの遺構を感じることができる。
信長や道三が天下を夢みた岐阜城。この2人も同じ風景をみていたのかもしれない。
城データ
城名:岐阜城、稲葉山城、金華山城、井口城
築城者:二階堂行政・斎藤道三・織田信長
主要城主:二階堂氏・斎藤氏・織田氏・池田氏・豊臣氏
主な遺構:模擬天守、天守台、櫓台跡、門跡、井戸跡、石垣、織田信長の館跡
所在地:岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地
連絡先:058-263-4853(岐阜城資料館)
アクセス:JR「岐阜」駅意・名鉄「新岐阜」駅より岐阜バス「長良方面」行き乗車、
「岐阜公園前」下車、岐阜公園金華山ロープウェイで山頂駅へ、山頂駅より徒歩約8分
東海北陸自動車道「岐阜・各務原I.C.」より車で約20分、岐阜公園金華山ロープウェイで山頂駅へ、山頂駅より徒歩約8分
駐車場:有料・無料駐車場あり
日本100名城
国指定
みどころ
・金華山頂上に建てられた天守から見る絶景
・斎藤道三や織田信長が築いた石垣
・初期の織豊系城郭
・国内初の山麓と山頂部分での二元構造を維持しながら、魅せる城としての革新性。
・地上の楽園と称された山麓御殿跡
・天下布武を掲げた城
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