大御所家康の居城
日本の首都・駿府城
今、駿府城が熱い。
静岡市では2016年8月〜2020年3月まで駿府城天守台の発掘調査が行なわれた。
駿府城の天守台は「駿府城御本丸御天守台跡之図」の絵図によって確認はされていたが、その存在は不明であった。
今回の発掘調査により、遺構が常時一般公開されており実際にその目で確認する事ができる。そして調査の結果、『江戸城よりも大きな天守台』が発見されたのだ。
これまで日本一の天守は江戸城とされてきた。
しかしそれよりも大きい天守が駿府には築かれていたことになる。
それだけではなく、『天正13年(1585年)の家康が関東に移る前の天守台』も発見されたのだ。大発見である。
この遺跡も常時一般公開がされている。石垣の内部まで確認する事ができる。
この大発見を間近で確認することができるのだ。
これは駿府へ行くしかない。
さらに駿府城のすぐ南側にある、静岡市歴史博物館を建設の際に、『戦国時代末期の道と石垣』が発掘されたのである。
これだけ技術が進化した現在も、歴史は更新している。
まさに浪漫である。
それでは日本一の都市・駿府城をご堪能あれ。
目次
①駿府城の歴史
②天正時代の天守台
③関ヶ原の合戦
④慶長時代の天守台
駿府城・下に続く
⑤駿府城の縄張り
⑥東照大権現家康
⑦その後の駿府城
⑧城データ
⑨みどころ
⑩おすすめ記事
・駿府城の歴史
皆さんは駿府といえば誰を思い描くであろうか。多くの方が徳川家康と答えるに違いない。
しかし、駿府城の前は今川氏の『居城・駿府館』が築かれていた。
駿府という地名にてピンときた方もいるかもしれないが、駿府とは文字通り駿府国(現・静岡県)の国府があった場所である。
今から650年前、室町時代に今川範国が駿河国の守護に任じられた。今川氏は足利一族名門で、将軍職を継げる格式高い家柄である。最盛期には駿府、遠江、三河の3カ国を平定しており、三河の国人領主であった松平氏も嫡子である松平元康(後の徳川家康)を人質として差し出している。幼少期の家康はここ駿府にて19年間の歳月を過ごした。
この頃の今川氏は家中最大勢力を築き上げ、当主の今川義元は「東海一の弓取り」と称されていた。
義元は家康に目をかけ、武術・学問を施し、一門同様に扱っている。
天正23年(1554年)に義元は隣国の武田信玄、北条氏康と三国同盟を締結させ、いよいよ天下取りへと動き出し、京へと兵を挙げた。
目下の敵は織田信長である。
天下は今川氏で決まったかと思えた。しかし、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにて、今川義元は織田信長に討ち取られてしまう。その後、今川氏は衰退の一歩を辿り、三河より独立した徳川家康、武田信玄に領国を侵攻され、駿府館も信玄の手に落ちている。
天正10年(1582年)の甲斐討伐にて織田信長・徳川家康の連合軍によって武田氏が滅ぼされると、家康は信長より駿府の地を与えられている。
余談だが、後に駿府の地に戻った家康は、人質時代に過ごしたこの地を「小さい時に住んでいたため、故郷のように感じられて忘れられない。冬暖かで米がうまい。」と語っていたと云う。
その僅か3ヶ月後の6月、本能寺の変にて織田信長が横死。
主を失った甲斐・信濃・上野の武田旧領を求めて「天正壬午の乱」が勃発し、家康は甲斐と信濃(上杉・真田領以外)の領土を手にした。
これで家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5ヵ国地域を手中に治めたのである。
その後、信長の後継者争いに勝利した秀吉は、既に約20カ国地域も有し、天下を集中に納めるべく驀進していた。この勢いを止めたのが駿府城の徳川家康であった。
家康は信長の次男・信勝からの要請を受け、打倒・秀吉の兵を挙げる。
天正13年(1583年)家康は『小牧長久手の戦い』にて豊臣軍に勝利するも、あろうことか総大将の織田信勝が秀吉の調略により落ち、同盟を結んでしまう。大義名分を失った家康はついに秀吉に降伏する。
天正18年(1590年)には『小田原征伐』に従軍し、この功により家康は旧北条領である関東250万石を与えられ、駿府から離れている。
その後、駿府には豊臣古臣の中村一氏が14万石にて入城。
これは秀吉の徳川包囲網の一角であり、小諸城に仙石秀久、松本城に石川康長、甲府城に浅野幸長、掛川城に山内一豊、浜松城に堀尾忠氏と、どれも豊臣恩顧の大名たちにて関東を囲み、家康を包囲している。
だが、この大名たちは関ヶ原の合戦時、いずれも家康に味方をしている。
・天正時代の天守台
話は戻るが、天正13年(1585年)家康は浜松から駿府へと拠点を移すため、駿府城の築城を開始し、同14年には駿府へと移り、同17年には普請が完成したと云われている。この天正時代の天守は資料も少なく、詳細は不明のままであった。
だが、今回の発掘調査にて実際の天守台が発掘され、全貌が明らかになった。
また天守台の他に、渡櫓台、小天守台も発掘され、松本城にて見れるような連結式天守であったということが分かっている。
天守台の大きさは東西約33m×南北約37mと、天正時期では最大急の大きさを誇り、渡櫓長さ9m、小天守は一辺約20m、合わせて東西約62m×南北約40mにもなる。
これは最古の連結式天守であろう。
自然石を積み重ねた野面積みによって築かれており、天守台北側には3m以上の巨石が積まれていた。
これは豊臣秀吉時代の大阪城、聚楽第に匹敵するもので、当時の最新技術が確認されている。
天守台中央には直径1.8mの井戸も発見されており、当時の状況を知る貴重な遺構となっている。
天守台の北側、南側には堀もみられ、これは豊臣時代の遺構に多く見られる技術である。
また金箔瓦も大量に出土しており、これも大阪城など豊臣系大名の居城にみられるものである。
さてこの天守台を誰が築いたのか。
であるが、家康家臣である松平家忠の日記には天守や小天守の文字がみられ、天正16年(1588年)に普請を行っているとの記述がある。
今までは詳細が不明であったが、実際に小天守を備えた天守台が見つかっている事から、家康が築いたと言えるであろう。
しかし家康が金箔瓦を使用した天守を築いたとは考えにくい。それは家康が金箔瓦を使用した事例がないからだ。
勿論、断定はできないが、やはり中村氏によるものではないか。
一氏は豊臣三中老の1人に数えられる人物である。しかし、14万石の大名としては城の規模が大きすぎる。
したがって、家康が築いた天守を一氏が改修したとの見方が妥当であろう。
どちらにせよ大発見には違いない。
・関ヶ原の合戦
慶長5年(1600年)、駿府城の中村氏は関ヶ原合戦時には家康に味方し、合戦後には伯耆・米子17.5万石に加増されている。
駿府には家康の異母弟である内藤信成が4万石にて入り、11年間に渡り駿府を治めている。
慶長8年(1603年)に家康は征夷大将軍に任じられているが、僅か2年で辞して息子の秀忠に将軍職を譲っている。
その後は大御所として、隠居城に駿府の地に選び、慶長12年(1607年)に築城の名手・藤堂高虎を初め、10ヵ国の大名に築城を命じ、天下普請として大改修を行った。
この時に天正時代の天守は破棄され、天守台は地中に埋められたと思われる。
・慶長時代の天守台
駿府の地を選んだ理由として、家康と親しかった廓山和尚の「廓山和尚供奉記」には5つの理由が記されている。
「一つ、私が幼年の時この駿府に住んでいたので、おのずと故郷のように感じて、忘れることができない。幼年の時に見聞したことを、大人になった今になって見ると、なかなか愉快なこともあるものだ。」
「二つ、富士山が北の空に高くそびえ、左右に山脈が連なっているので、冬は暖かく老を養うにはもってこいの場所である。」
「三つ、お米の味が天下一品である。」
「四つ、南西に大井川と安倍川の激流があり、北東には箱根山と富士川の難所があり、要害としても堅固である。」
「五つ、幕府に参勤する大小名たちが、駿府に来て私に拝謁するのに便利である。少しも回り道をする苦労もない。また、この駿府の地は、地勢が開けており、景色がよく、富士を不死と思い、長寿を養うには好適の場所である。」
(「廓山和尚供奉記」より)
と述べている。
家康は駿府に巨大な城を築き上げた。
東西約61m×南北約68m、高さ12mの慶長期1607年に築かれた天守台が発掘された。
この大きさは江戸城を凌駕する。
現在残っている最大天守の江戸城天守台でも東西約41m×南北約45mである。
天守台の石垣は打込接ぎで築かれ、当時の家康が築いた可能性が高いとされる。
中央には直径1.8mの井戸も確認されたており、これは天正期の縄張りと同じだ。
籠城して戦う事を想定して築かれている。
この日本一の天守台の四隅を多門櫓で囲み、その中央には5重(または6重)7階といわれる勇壮な天守がそびえ立っていたとされている。
また、天守台北東部では柱穴が確認され、二の丸から本丸にかけて約20mの木橋が掛かっていた。木橋の先には枡形虎口の跡が確認できる。枡形東部には多聞櫓台の基礎部が発見され、四方多聞櫓を囲んだ殺傷能力の高い枡形虎口だ。