日本唯一の赤瓦天守
難攻不落の鶴ヶ城
会津若松市のシンボルといえば会津若松城であろう。
黒川城・若松城・鶴ヶ城、数々の呼び名で親しまれ、多くのテレビや雑誌でも取り上げられる人気の城だ。
春夏秋冬・四季折々の情景が楽しめ、それでいて戦では一度も落城したことがない難攻不落の鶴ヶ城。その日本唯一の赤瓦天守には心奪われる。
築城より600年以上の年月が過ぎても人々の心を離さない鶴ヶ城の雄姿をご堪能あれ。
目次
①奥州の雄・蘆名氏
②人取り橋の戦い
③決戦・摺上原
④おすすめ記事
・奥州の雄・蘆名氏
会津若松は文治5年(1189年)、奥州合戦の戦功により源頼朝から三浦義明の7男・佐原義連に会津を与えられ、義連の4男・光盛が出身である相模国芦名(現在の神奈川県横須賀市芦名)に由来し、蘆名(あしな)氏を名乗り、この地を治めたのが始まりとされている。
元中元年(1384年)当時、黒川と呼ばれたこの地に蘆名7代当主・蘆名直盛が東黒川館と称する館を建てたのが始まりで、代々蘆名氏の支配が続く中、城郭も拡張整備され「黒川城」と呼ばれるようになった。
蘆名氏は黒川城を拠点に次々と領土を広げ、16代・盛氏の時代には最大勢力を誇り、会津から越後方面まで広大な領土を治めた。これにより近隣の伊達氏、上杉氏、佐竹氏など有力大名と肩を並べ、奥州の雄として覇権を争っている。
盛氏は天正2年(1574年)、家中の内紛を抑えるため嫡男・盛興に家督を譲り、盛氏は止々斎と号した。隠居後も政治・軍事の実権を掌握し、引き続き家中の統制にあたっている。
しかし嫡男・盛興が29歳にて病死。
蘆名氏には他に男子はおらず、人質としていた隣国の二階堂盛義が嫡男・盛隆に未亡人になった盛興の妻・彦姫(伊達晴宗の娘)を娶らせ家督を譲る。
この家督相続が家臣達に確執を生み、後に蘆名氏は衰退していくこととなる。
天正8年(1580年)蘆名止々斎は60歳にて死去。
18代当主・盛隆は織田信長と誼を通じ、隣国の上杉氏を牽制。小田原北条氏と同盟を組み、常陸(茨城県)の佐竹氏と争った。一方で盛隆は蘆名氏の力を使い、実家である二階堂氏の勢力拡大を行い、家中の反感をかっている。
天正12年(1584年)、恨みをかった盛隆は家臣の大庭三左衛門に黒川城内にて襲撃され24歳で死去してしまう。
家督は生後1か月の亀王丸が継ぎ、彦姫が後見人を務めるも、2年後の天正14年(1586年)疱瘡にて死去。蘆名家中は混乱を極めた。
次なる後継者を決めるべく家中は養子を巡り2分することとなる。
伊達氏から伊達17代当主・伊達政宗の弟、小十郎を推す蘆名一門衆の猪苗代盛国、平田氏や富田氏ら宿老達の伊達派、重臣・金上盛備ら佐竹18代当主・佐竹義重の次男、義広を推す佐竹派とで争いが勃発。金上盛備の政略によって佐竹派が勝利する。
佐竹義広は蘆名盛隆の養女を娶り、蘆名第19代当主・蘆名義広が誕生する。
蘆名義広は当時12歳。家中をまとめる力はなく、伊達派の家臣達と決裂することとなる。また佐竹氏より送り込まれた大縄義辰らの佐竹家臣団が徐々に実権を握り、伊達派の宿老らを次々と失脚させていった。
これにより伊達氏との対立は強まり、伊達氏への攻勢を強めていくこととなる。
・人取り橋の戦い
仙道方面の進出を目論む伊達政宗に対し、 義広は周辺大名の畠山、二階堂、白河、石川、岩城、相馬、佐竹氏と同盟を結び政宗を牽制。二本松城主・畠山氏の救援要請に応じ、父・佐竹義重を総大将とする3万もの連合軍を結成する。
伊達方諸城を次々と落城させ、ついに人取り橋にて両軍が激突した。
連合軍3万に対し、伊達軍8千。
壮絶な激戦にて熾烈を極めたが、数に勝る連合軍が優勢のまま日が暮れ、決戦は翌日に持ち越された。このまま連合軍優先のまま進むかと思いきや、突如、佐竹軍は陣を引き、撤退を開始したのである。
佐竹勢の陣中では、軍師・佐竹義政が下郎に刺殺される事件が起きていた。
また本国で敵が検挙するとの急報を受け、急遽帰陣したと云われている。
総大将の撤退により、連合軍は解散。
これにより伊達氏は宿敵・二本松氏を滅亡させ、二本松城を攻略。政宗は父の敵を討ち、更なる領土を広げたのである。
・決戦・摺上原
蘆名氏と伊達氏は対立を深めていき、そして天正17年(1589年)、ついに奥州の覇者を決める決戦が行われた。
「摺上原の戦い」である。
蘆名一門衆である猪苗代盛国が伊達氏に寝返り、黒川城から北東約25㎞地点にある猪苗代城が伊達の手に落ちた。
蘆名義広はこの報を聞くと、急ぎ軍勢を整え1万6千の兵にて黒川城を出陣し、猪苗代城へと向かう。
政宗も2万3千の軍勢にて、磐梯山麓の摺上原に着陣。いよいよ両軍の激突が始まった。
強風を味方にした蘆名軍は伊達軍先方・猪苗代盛国隊、第二陣・片倉小十郎隊も撃破する。政宗は側面より伊達成実隊、白石宗実隊を突入させ、陣の立て直しを図るが、数で劣る蘆名軍の必死の攻撃に苦戦する。
しかし蘆名軍は既に内部から崩壊していた。
元々伊達派であった宿老の平田隊や富田隊は一切動かず、伊達勢が有利になると無断で陣を撤退させてしまう。
また義広・手飼い大縄義辰が離反、これにより勢いに乗った伊達勢は総攻撃をかけ、蘆名軍を撃破。義広はわずか30騎を伴い黒川城へと敗走した。蘆名勢の死者は2500を越えたと云う。
義広は父である佐竹義重を頼り、常陸国へと逃亡していった。
後に最後の最後まで主君の為に奮戦し、討死した蘆名家臣・金上盛備、佐瀬種常、佐瀬平八郎常雄を忠義の三士として、会津藩主・松平容敬が碑を建立し、その忠義の様を三忠碑として現代に伝えている。
この碑には全文四三七文字を唐の書家・顔真卿の書体を集め刻まれた、日本でも珍しい碑文である。
この蘆名義広は、関ヶ原の合戦後、秋田へ転封となった佐竹氏と共に秋田へ行き、角館1万6千石を与えられ現在の角館城下町の祖となった。
ここに約400年続いた奥州の名門・蘆名氏は滅びたのである。
主のいなくなった黒川城へ政宗は入城。奥州の覇者として拠点を米沢城から、ここ黒川城へと移すのであった。